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更新日:2021年10月25日

阪神・淡路大震災 消防職員手記(須磨消防署)

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阪神大震災奮闘記(1995年3月号掲載・梶本 嘉男)

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夢の世界の出来事であれば良いと思った、しかし、現実の出来事であったのである。
平成7年1月17日の早朝5時46分淡路島北部を震源として発生した阪神大震災(兵庫県南部地震)は、大都市『神戸』をはじめ阪神間の主要都市を一瞬にして壊滅状態にしてしまった。

大自然の驚異

大自然の恐るべき力はそこに住む人、建物、道路、鉄道、貴重な文化財等に対しても区別なく襲いかかりその爪痕だけをそこに残した。(死者五千四百名以上、ビル家屋等の倒壊焼失等15万棟以上、避難住民30万人、復興に要する金額10兆円)

私はその時自宅の二階で寝ていたが大きな揺れで飛び起きた。下から突き上げる様な縦揺れと横揺れが続いた。地震と同時に停電したが柱に取り付けている非常用電灯を取り、家族に「地震だ起きろ」と告げた。大きな余震が何度も続いてきた。窓を開け外を見ると市内全域が停電しており真っ暗な中で遠くに見えるのは明石海峡に建設中の明石架橋の鉄塔に点滅する明かりだけが妙に大きく輝いているのが印象的であった。
停電しているので携帯ラジオのスイッチを入れると『淡路島北部付近で地震が発生した、京都で震度5』と放送していたが神戸の事は何も言わなかった。外の道路へ近所の人が避難していた。懐中電灯で我が家の周囲を点検したが被害は無いようであった。(私の住居は神戸市西区の西神ニュータウンであったので幸い周囲の住居もほとんど被害はなかった)
午前6時30分頃、署長から電話があった。『須磨区で火災が多発しているので直ぐ出勤せよ』との非常招集であった。電車等の交通機関はすべて停電で動かないとの事であるので車で出勤したが、須磨消防署の手前1キロメートルの須磨離宮公園付近で車が大渋滞で止まってしまった。
車での通勤途上でも大きな余震が何度となくあった。そこで聞くラジオで刻々と地震の被害が流れてきたが須磨区の市街地へ入るとその状況が一変した。木造家屋は軒並みに倒壊していた。大災害である事が判明した。また大火災のため空は真っ暗で恐るべき光景が目の前に現れた。風光明媚といわれた美しい須磨区の住宅街は一体何処へ行ってしまったのだろうか?車は少しも前へ進まない。1キロ進むのに約2時間かかって午前9時やっと勤務先である須磨消防署へ到着した。
署前の道路は大きな亀裂が走り凸凹の状態であった。須磨区では大火災が3ヵ所同時発生し消防隊、救助隊、救急隊はすべて出動していた。空いた署の車庫には多くの避難住民や怪我人等100名を越える人々が来ていたが、署員は未だ2~3名しか集まっていないのでどうする事もできない状況である。
1階の署員の更衣ロッカーは全て倒れ衣服や制服、制帽等が散乱の状態であった。私は自分の更衣ロッカー付近で作業服を探して更衣し2階の事務所へ急いだ。机、ロッカー、書類、コンピューターや重要な消防管制システムも全て倒れ、床に散乱して足の踏み場もない凄い惨状に言葉もない。署の衛生管理者として署員が全員安全で怪我がなかったのだろうかと一瞬思った。
電気、水道、ガスは全て止まっていたが、消防管制システムの小容量の非常電源が作動していた。私は署内の状況を写真に収めて直ぐ望火台へと駆け登った。望火台は地上約30メートルで20年前まで24時間そこで火災監視をしていた所で、須磨区が一望できるし、また遠く長田区や兵庫区も望む事ができる。今は無人であるがそこから須磨区の状況を写真に収めようと思った。望火台の監視ベランダに出て東部を望むと大火災の火柱と真っ黒い煙がもうもうと天空高く立ち上がり、幅数100メートルの黒煙のカーテンが天からぶら下がっている様に見えた。今まで幾多の火災を経験しているが、この様な光景は初めてであった。また、直ぐ南をJR西日本の山陽本線の複複線が走っているが不通電車等が線路上で何両も脱線転覆していた。
時間が経つにつれ非常招集で署員も次々と参集してきたが、当務の署員は地震発生と共に発生した火災現場に即時出動したままで、朝食も取らず火災現場で消火活動や救助活動を続行している。
とりあえず管内の主要なスーパーに食料の調達に当たったが、すべて開店できる状態ではない。近くのスーパーへ自転車で走ったが、このお店も1階が完全に潰れていたので食料を調達できる状態では無かったが、ちょうど地震の前に牛乳が屋外に配達されていたので千ccの牛乳を100本特別調達させていただいた。12時過ぎにやっとそれを延々と燃え続ける火災現場で活動している消防隊員に配布したが何処に部署しているか判らず、隊員諸君には済まないが、全員に配付できたかどうか私すら疑問である。
震災時に発生した神戸市内の大火災に対してすばやく兵庫県下の消防本部や大阪市消防局から、多数の消防部隊が応援に来て消火活動に協力して頂いたが、夜になって長田、須磨の境界付近の火災は次々と延焼拡大し、40メートルの道路すら飛び越えて民家や工場を焼き尽し、延焼面は拡大するばかりであった。水道消火栓が地震で破壊され一滴の水も出ないので消防隊は防火水槽、学校のプール、河川を流れる僅かな水を土のうでせき止め、何100メートルもホースを延長して消火活動をした。厳しい訓練を積んだ消防隊員の強健な体力すらも全て使い切る様な火災との悪戦苦闘であった。学校のプールや防火水槽の水もついには使い切り、最後は海から海水を1.5キロ以上もホースを延ばし消火に努めた。
17日の深夜やっと火魔の力も衰え、多くの市街地の民家や工場を焼き尽した。地震で倒壊した家屋に取り残されたまま延焼拡大して焼死した方も多数いる可能性を残したまま。
須磨消防署にも次々と全国各地の消防本部から応援に来て頂いた。広島県、奈良県、岡山県、京都府、愛知県、富山県等の府県下の各消防本部、遠くは新潟県下の消防本部から雪の国道を約700キロ乗り継いで来て頂いた。最盛期は200名を越える応援隊員と40台を越える消防車両の集結があった。そして電気、水道、ガスの無い庁舎で当署の職員125名と合わせて300名以上が須磨区の救助、救急、消火の活動に従事し、殆どの隊員の仮眠は事務室等の床に毛布であった。
我々、署の管理係は補給班として、300名を越える隊員の非常食・お茶・飲料水等の確保、医薬品、下着・靴下・石鹸等日用最小限度の必需品の確保、厨房・暖房機器の故障でそれに替わる手立て、70台を越える消防・救助・救急車両等の燃料の調達(毎日ガソリン600リットル、軽油1,000リットル以上の消費)等、それらに追われて不眠不休の日々が続いた。

人間の限界と心の逃避

人間は非常時の時には想像以上の意思力と気力がある事をここに知る。疲れきって一人ぼんやりしている時ふと子どもの頃に仲の良かったガキ仲間と川辺で魚釣りをしたり野や山を駆け巡り、汗をかいて飲んだ故郷の実家の裏にこんこんと沸きいずる清水の流れを急に思い出してみたり、また、こんな大惨事が眼前にあるのに夜の澄みきった夜空を見ると何事も無かった様に星は輝いている。故郷にいた遠い青春の夢多きあの頃に見た美しく天空に輝く故郷の夜の星座と全く同じ輝きをそこに見たりして“心の逃避”をしている事に気付くのである。人間はこんな時に子どもになるのでしょうか?

電気は震災後4日目の夜に通電した。近代文明の中で何不自由なく生活していて電気や水道やガスの無い惨めさと有り難さを全員が噛みしめる。水道は10日目に通水したが少ない水で300名の排便処理をしていたため汚物が下水道に流れず集合舛で溜まっていたため、通水と同時に1階の便所から汚物が逆流して汚物の海と化し大変な事となり、予想もしない事が次々と発生するものである。
防災の第一線を担当する我々消防職員は全員が消防署に缶詰め状態で続発する火災や救急・救助事案に対処した。職員の中には家屋の全壊や全焼、実母と幼い長男と一度に亡くした署員もいた。特に当日当務の職員は家族の安否が掴めないまま火災出動し、何日も引き続き勤務している。職務とはいえ大地震の非情さにその言葉が見当たらない。
応援都市の消防部隊は当署に2泊3日で交替して頂いたが、道路が寸断され交通は大渋滞で交替そのものも大変であったと推測。しかし、各都市の消防隊員の方も長期間にわたり私達と労苦を共に一生懸命で神戸市民のために尽くして頂いた。
神戸市内は経済活動が完全に停止状態であり、30万人の避難住民と消防、警察、自衛隊、各区の災害対策本部の職員や医療、土木、清掃、電気、水道、ガス、通信等に従事する何万人の職員に対する非常食や飲料水の確保は大変であったと思われる。当初は県内では調達できず、大阪、和歌山、岡山、京都、愛知、富山等から陸・海・空輸されたと聞くが、交通事情の悪い中であったが、第一線の消防部隊に対しては一度も遅れる事なく3度の非常食等の配付を受ける事ができた。この様な悪条件の中においてこれらの物資がスムーズに調達できた事は第一線で体力を保持して災害活動をしなければならない消防隊員にとって本当にありがたかった。これは多くの人々の協力があっての事と感謝いたします。

大地震は防災拠点すら破壊

神戸市内には11署の消防署があるがその内3署が地震で倒壊危険等のため使用不能になったのである。防災拠点であるはずの消防署でさえ避難しなければならない状況におかれた今回の地震が如何に凄かったかが判る。

今回の阪神大震災に対して、国内をはじめ世界各国及び多くの団体や個人からのご支援とご援助そしてボランティア等の活動に対して防災関係職員として感謝に耐えない。
神戸市はこれから市民、企業、行政が一体となって震災復興に取り組まなければならない。それは厳しい苦難の日々かもしれないがきっと世界に誇れる『防災安全都市“神戸”』が実現するものと思われる。
我々日本国民は戦後の復興を国民一丸となって達成した実績がある。この大震災に負ける事なく、希望を持って新しい都市創りに当たる事をここに一市民としても期待する。

震度七の体験(1995年3月号掲載・坊池 政美)

穏やかに迎えた平成7年の初春の明け方、いつもの私なら朝5時頃に起きて軽く乾布摩擦をし、運動着に着替えて近くの公園のあたりを散歩しているところだが、1月17日の朝は少し目覚めが悪く、うとうとしていたら突然大音響とともに身体が宙に放り投げられたと思うと、ギャッーと叫んで夢中で懐中電灯を手にし、玄関口へ飛び出した。咄嗟に大地震だとわかり、消防作業服に着替え、一目散に消防署の方へ走り出した。

ところが、家々の倒壊によって道はさえぎられ、あちこち迂回しながら、やっと須磨消防署にたどり着いたら、署前の道路は大きく裂け事務所は瓦礫の山、署員達はすでに通信員一人を残して出動していたので、何とか数名の署員を非常呼び出しし、後を通信員に委ねて、私は遠くで紅蓮の炎をあげて燃え盛る火災現場へと駆け出していったのである。

一度に数か所の火災が発生したためわずか1台の消防車で2線放水による防御では、とてもかなわない。倒壊家屋の下敷きになった肉親を助けてほしいと泣き叫ぶ人々、水道断水のために学校のプールの水だけが頼りのなさけない防御活動、近隣住民の応援を受けながら、延々10数時間に及ぶ消防活動によって、どうにか、鎮圧状態になり捜索と人名救助に主力を注ぎ、一人又ひとり救助されていった。

そして、19日には、広島市消防局をはじめ全国各方面から消防隊、救助隊、救急隊等大部隊の応援をもって緊急対応を処理していった。一日に数10回の救急出動と数回に及ぶ火災出動には消防職員達もさすがに閉口した。

朦朧とする意識を振り絞って、時を移さず指揮し、職員を励まし、食事をすることすら、忘れるほどの状態が続いた。続けざまに襲う余震の中での人命救助などは、とてもこの世のこととは思えないほどの光景である。

それでも、少し落ちつきを取り戻し始めた頃から、一体今までの震災対策は何であったのだろうか。コツコツと進めてきた自主防災活動は何であったんだ、そのような無力感がこみ上げてくると同時に、これからも臆することなく勇気をもって万全の対策のために力強く発言し、行動したいと思った。

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