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更新日:2021年10月25日

阪神・淡路大震災 消防職員手記(兵庫消防署)

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阪神大震災1月17日(1995年3月号掲載・新谷 孝)

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物凄い地震だった。消防学校で勤務している頃、市民に「震度6」を起震機で体験させ、「神戸にこんな地震は来ませんよ」と言ったことが頭をよぎった。後悔した。

その時、自分は自宅にいた。幸い家族や親、兄弟に怪我はなかった。子供が持ってきたラジオのスイッチを入れる。市民から放送局に電話が数本かかっている様子。

「○○区の高台にある家から市内を見ると数本の煙があがっていると電話が・・・・・・」と背筋に寒気を感じた。

非常招集の電話が鳴ったのは、その後すぐの6時30分頃。

車で垂水区の家を飛び出し、西神戸有料道路を通って運南出張所へ向かう。途中のひよどり料金所に人がいなかった。料金所を越えた頃から車が渋滞しだした。丸山橋にさしかかった所で眼下に長田区が広がる。所々に数本のまっ黒い煙が立ち昇り、空を覆っていた。かなり遠くなのに赤い炎さえも確認できるほどで、火災が発生している様子は、映画でも見ているように感じた。頭の中が空っぽになった。静かだった。

「なんでや。なんやこれは」

長田区重池町の鉄筋の市住も3階部分がなくなって7階建てが6階建てになっていた。上沢通、大開通の民家も列をなして崩れていた。

「何かをせなあかん。早よせなあかんぞ!」

背筋に何かを感じながら、やっと出張所に付いたのは7時30分頃だった。

消防車も救急車もない車庫は散らかっていた。事務所に上がる。机が移動し、引き出しは開き、食堂には割れた食器が散乱し、床はソース浸しだった。防火衣を身につける。車庫に降りた時、駆け込みがあった。

「本町で人が埋まってるんや」

「よし、今から行ったる」

後から来た署員と共にスコップ数本を自分たちの車に積み込み現場に向かう。

木造2階建ての1階が潰れていた。残った2階部分も傾き今にも崩れそうだ。折れた柱や土壁が重なり、むき出しの柱は空に向かって斜めになり、そこに瓦が散乱している。背中から足まで倒れた壁に埋もれ、頭は2階便所の床の下敷きになっている。

「おーい、大丈夫か。今出したるからな」

自分の不安を消すために、下敷きになっている人を勇気付ける。時折余震がくる。その度に屋根の土がパラパラと落ちる。作業を中止して様子を見る。

「あかん、早よせなあかんぞ。」

掘り起こしの手に力が入る。近所の人に鋸やバールを催促する。埃が喉に入る。

「くそ!」

途中、何度も声を掛ける。そうしないと自分の不安を消せないから・・・。まず尻が出てきた。次に足。そして頭を引っ張り出す。どれほど経ったか分からない。救出した時「やったぞ」と思った。のも束の間、まだ中に一人いるらしい。今度は傾いている家の中へ。ガスの臭いが鼻をつく。声をかけるが、返事がない。また声をかける。返事がない。

「早くこの家を出よう」

不安に負けそうになる。

「おーい、ここや」微かに声がする。

「・・・・・・おるぞ!・・・・・・もう一人出すぞ!」

隊員に声をかける。室内の物品を表に放り出す。畳をはがして外に出す。床板を力任せにブチ破る。埃が苦しい。ここでも声をかけることを忘れない。1階が見えてきた。声もだんだんハッキリ聞こえてきた。1階室内の物をかき出す。

「手が見えたぞ」

隊員が叫ぶ。あとは一気に引きずり出した。

「やったな。」

隊員たちと顔を見合わす。汚れた顔がすごく良かった。言葉はなかった。現場を引き揚げかけた時、隣の人が

「おばあさんの姿が見えない、多分この中に・・・・・・」

途中応援の隊員5名と市民とのこんなやり取りを繰り返して無事5人救出。しかし残念ながら一人はすでに・・・。剥ぎ取った床の下見える胸にはびくともしない柱があった。パジャマ姿だった。その脇には安否を気遣って駆けつけた兄弟たちが自分たちの救助作業を見守っていた。亡くなられていることを伝える。グッと拳を握るのが見えた。何故か涙が出た。隊員には見られたくないと思った。悔しかった。手を合わせて現場を後にする。出張所に一旦引き揚げた時は昼の12時をまわっていた。

「さあ次は火事や!」

その頃ちょうど帰ってきた救急車に乗り換え上沢方面へ向かう。現場に近づくにつれ煙が大きくなっていく。現場に着いてみると今まで見たこともないような広範囲の火災であった。道路の右も左も燃えている。その道には焼け崩れた瓦礫がせり出し、電線も所どころ焼け切れ垂れ下がっている。西から延びてきたホースを受け取り自分たちは南への延焼阻止に走る。

「ここを守れ!絶対このアパートは燃やすな」

先着隊の必死の声を聞く。隊員と二人アパートの路地へ進入する。バリバリ ガシャーン!

「さがれ!」

倒壊家屋は通常より崩れやすい。筒先を修正する。反対側で市民が「アパートのこっち側に火が入ったぞ」
また筒先を移動する。

「ホースを引っ張れ」

今まで傍観していた人たちがかけ声をかけ協力してくれる。アパート内に進入する。煙で息苦しい。

「ホースをくれ」

天井を破り天井裏に放水する。燃えている押入の布団をかき出して外へ放り投げる。

「ここでくい止めるんじゃ」

鎮圧して外へ出た頃には、北側へ炎が延びていた。北へホースを延ばそう。そう判断したがホースを延ばそうとしている両側は炎が立ち上がり輻射熱で近寄ることもできないほど。しかし迂回するホースの余裕もなく、その時間さえも惜しい。やむなく炎の中を突っ切る。水を掛けても掛けても衰えない火。どんどん広がる火の海。それでも水を、限られた水を掛けるしかない。道路を隔てた家から、煙が出始める。輻射熱だ。放水している後ろの方で火の手が上がる。炎だけが異常に赤く、オレンジ色に大きく目の前に広がり、空には火の粉が、まるで雨のように舞っている。気がつくともう辺りは暗くなっていた。火は松本通2丁目から3丁目、そして5丁目へと西へ広がっていた。

「ほんまに消えるんやろか・・・・・・」

あまりにも消防が無力に思えた。

消火している他の隊の隊員を見た。1係の反対番だった。彼らは当務で家や家族、身内、大切な人の安否さえ知ることが出来ずに現場へ出動した。家は大丈夫だろうか。きっと救助活動している間も、消火している時さえも、そして今も大切な人への安否を気づかっているに違いないと思った。かけがえのない人、それは親であったり、家族であったり、子供であったり、恋人であったり・・・・・・様々なはず。

「頑張れよ!」

そんな事を考えながら、また自分も活動を続ける。

火の手が延びる西には避難所の神港高校がある。ここは何が何でも守らねばならないという指示がとぶ。17日午後11時頃、防火水槽の転戦にも限りがある。豊富な水を求めて新湊川へ。会下山公園の裏手を越え神港高校までのホースラインを設定する。山越えの約800メートルである。兵庫4小隊と若手の隊員で延長を始める。ホースを担いで延ばし、取りに戻ってまた担いで延ばす。そんなことを何回繰り返したか覚えていない、途中香川や和歌山の応援隊も来て合計4線150本ほどは延ばしただろうか。暗い道をみんな足を引きずっていた。

「この長靴は役に立たん」

重たい長靴に腹を立てる。放水を始めて時間が経つにつれホースが1本、2本と次第に破れ始める。同時に取り替えなければ放水に支障が出る。5分後に約1分間の放水停止、その間に取り替えるよう指示を出し、ホースを持った隊員を配置する。

「いまや!」

会下山の中腹で大声で叫ぶ。時計を見る。1分後兵庫4から「放水開始」の無線が入る。配置した隊員が坂を下りてくる。顔を見て分かった。成功した。おにぎりを口に入れ、筒先の交代に向かう。午後2時。

「もう18日か」

風はなかった。火の粉が舞っていた時の風がうそのようだった。現場に着いた時、避難所まで50メートルほどの所まで来ていた火は勢いを失っていた。

「やっと消えるか・・・・・・」

正直いって消したというより、そんな思いになった。しかし、ここまで燃やしてもたと言うよりここでくい止めたんやと思いたかった。

「寒い」

急に寒さを感じてきた。

「冷え込んできたな」

「もう少しや」

安堵感が疲れた体に寒さを思い出させ、放水しながらじっとしていると眠りに引き込まれそうになる。申し訳ないけど燃えて温かいコンクリート片を瓦礫の中から取り出し、少しの暖を取る。東の空がうっすらと青くなって西の空を見るとまだかなりの煙が昇っている。

「長田はまだ燃えてるな」

「大変やな」

それ以上は考えられなかった。

これが自分の1月17日でした。震災で感じたことは数え切れないほどあります。今思えば「もっと、できたんじゃないか」と考えてしまいます。本当に消防は力を出し切れなかった。水さえあれば・・・・・・。悔しくて仕方がありません。でも、あの時は精一杯でした。消防はみんな一生懸命でした。

“焼け石に水”しかし・・・(1995年3月号掲載・橋本 誠也)

非常招集により参集した5人で1隊を編成し、まだ消防隊の入っていない下沢通2丁目の火災現場への出動指示を受けた。署ガレージ内のポンプ車はもちろん、消防車両はすべて出動し、唯一広報車が1台残されただけである。僅かに残された可搬式ポンプ、ホース、水損防止用筒先などを掻き集めるようにして広報車に積み込み、不十分な資機材に不安を感じながら出発した。

倒壊した建物や押し潰された駐車車両などに道を阻まれ、ようやく到着した消防隊を見つけるなり、付近の住民が駆け寄り「こっちこっち」と訴えている。倒壊した建物数棟が赤々と燃え盛り、隣接した建物へと延焼しつつある。直ちに放水を開始したいが、消火栓から水は出ない。もちろん水利地図はなく記憶を頼りに数100メートル東側に防火水槽があるはずと、すがりつく住民をふりきり移動した。

「隣の家がもたれかかって崩れそう」「ガスが漏れている」「つぶれた家の中に人がまだいるかもしれない」等、通常ならどれをとっても大変な出来事を訴えてくる住民に、応答する暇もなく、ひたすら火点を目指してホースを延ばした。

ようやく火点付近まで届いたホースに筒先をつけ、放水を始めるが、ますます拡大した火災に対する消防の力は、僅か1線のホースと、その先に付けた水損防止用ノズルだけ。立ちうちできるはずがない。状況のわからない住民は、そんな我々に対しおそらく「やっと火を消してもらえる」とでも思ったに違いない。

火災はどんどん西から東へと拡大している。

「どこかで延焼阻止を」と考え、文化住宅2階通路へ進入。ホースを吊り上げ、放水を開始しようとした瞬間、1階から突然炎が噴き出し、立てかけられた梯子を使い命からがら脱出。すでに手はつけられない状態である。

更に隣の建物に進入し、文化住宅からの延焼阻止のための放水を開始。住民から「私のマンションに燃え移りそう」との叫び声に誘導されながら確認に行くと、火の勢いは予想をはるかに上回り、隊員に「すでに火が入っている」と告げ、ホースを引っ張り、ようやく屋外へと脱出した。

「なぜ私の家に水をかけてくれないのか」との家人の声をよそに筒先を移動する。

唯一炎上建物からの延焼阻止に成功したマンションを除き、ことごとく火勢に突破された延焼阻止活動。結果的に4,000平方メートルを越える焼損である。可搬式ポンプをかつぎ移動を数回繰り返し、10数時間に及ぶ放水の結果、防火水槽の水も底をついた頃、ようやく火勢は衰えた。

兵庫県南部地震により発生した災害で、家族を失った方、家を失った方など、被災された方々の悲しみは計り知れない。

一方、「消防は何している」「水が出るのが遅い」「早く消せ」と様々な罵声を浴びながらも、少しでも多くの人を、少しでも多くの建物を守ろうと、私たち消防隊員は、体力の限界をはるかに越えた状態で、一生懸命、消火活動・救出活動に力の限りを尽くした。このことを少しだけでもわかっていただければ幸いです。

震災の映像(1995年3月号掲載・吉本 和弘)

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9日ぶりで家の敷居を跨いだ時、体中に安堵感が沸き、わが家と家族が無事であったことを神に感謝した。無事だとは知っていたが、自分の目で見ない限り、とても信ずる気にはなれなかったからだ。
ところが、布団にもぐり込んでみるも、身も心も休んでくれなかった。瞼の裏側に震災の惨状が映像となって現れるし、寝返りをうてばあらゆる関節が音をたてて睡眠を阻止したからだ。頭も体も自分のコントロールできる状態ではなかったのだ。
『あの日は何をしたのだろう。』
『部隊はどう動いたのだろう。』
いくら考えても、目の前に写しだされるのは映像ばかりであった。三つの画像が繰り返し、繰り返し、映し出され、思考力は全く無力となっていた。

この日、仕事を終えて仮眠についたのは午前5時10分。待機室の布団で「ゴー」という地鳴りを遠くに聞いたと思う。続いて、消防署の建物が分解するほどの揺れに見舞われた。
揺れが終わると、非常灯が点灯し、事務所は足の踏み場もないほどに荒れはてていた。ガレージでは車止めが散乱し、ポンプ車や救急車が歩道にまで乗り出していた。歩道が浮き上がり、路面が割れていた。
『この静けさは何だ!』
人の声、犬の鳴き声、車の音。なにひとつ生活の音がしない。凍りついたような静寂が空間を包んでいた。
空は闇に包まれ、暗闇の向こうに小さいがしかし真っ赤な半円が眺められた。
「火事だ。出動に備えろ!」
今も大笹滋士長の叫び声が耳にこびりついて離れない。それはこの後の不幸の連続の始まりであったからだ。
普段なら20数台の消防車が取り囲んでいるはずの火災が目の前にある。
「だめだ!消火栓に水がない!」
応援を求める無線に応答はない。目の前の倒壊家屋の下から人の声がし、その家屋に火が迫ってくる。
「プールから水を取れ!」
病院に火が迫っている。
「病院へ行ってくる!」
「皆さん!早く避難してください。動けない人はいませんか。避難先は湊川中学です」
たくさんの無残な倒壊建物があり、至る所で人だかりがしている。
「消防さん。お父さんとお母さんを助けて!」
上沢・松本地区の火災に出動できたのはポンプ車2台に消防隊員7名であった。

非常招集の部隊がこの地区の火災に投入されたが、ポンプ車2台という戦力不足は解消されなかった。
倒壊家屋は木と布と紙の固まりであった。倒壊しなかった建物もモルタルがはげ落ち、木ずりが剥き出しで、破れた窓からはカーテンが揺れていた。
火災は火面を拡大するだけではなかった。ようやく火面を包囲する放水体制を組めたと思う瞬間、放水隊の後ろから火の手があがる。延焼阻止線を突破した火災は先に消火しなければならない。これに掛かっている間に包囲していた火災が勢いを増し、ホースを焼き切ってしまう。
火勢が北面に延焼しだすとこれより先の住民に避難を呼びかけ、東面に延焼しだすとこの住民にも避難を呼びかける。消防力が火勢に負けている以上、風向きに振り回された。
「燃料が切れてきた。補給願う」
「転戦のためのホースが不足。調達して欲しい」
「これより食料の配付にまわる」
夕刻。状況調査のために登った会下山の上から、恐ろしい光景を見せつけられた。
火勢は東風に乗って西面への圧力を増し松本4丁目から5丁目に移ろうとしていた。
恐ろしい光景とは、西面に延びようとする火面よりさらに西に3つの小さな炎が立ち上がっていたことである。続いて、ゆっくりと大きな火面に飲み込まれていった。
『どこで、火面を捕まえればいいのだろう』
身震いした。
ポンプ車は1分間に2トンの水を放水できる。この水を確保するには川から取水するほかなく、取水できる場所は火面の東側に偏っていたからだ。

「神港高校の南北道路でこの火災と決着をつける。同時に神港高校に避難している人を守れ」
中村和敏署長の檄が飛んだ。
熊田晃久救急主査が作戦を担当すべく、会下山の北東、東山小学校へ駆けた。
ここにポンプ車を据え、会下山を迂回するようにホースラインを延長して火面の西側に部署、火災と最後の対決をするのである。1本20メートルのホースを50本、しかもこれを4線確保しなければならない。全て人海戦術である。担当した消防職員・消防団員は必死であった。
「西側の兵庫高校に避難しようという意見が強く、お年寄りを多数抱えている私どもは判断に困っています」
神港高校の職員から避難者へのアドバイスを求められる。
この狭い南北道路に避難者と避難の車で溢れることは、作戦の失敗を意味していた。
なぜなら、作戦の成否は1.火災が到着する前に作戦を完了すること2.消火活動をしている際に飛び火がないこと3.神港高校の南北道路が消防隊の自由に使えることにかかっていたからだ。
神港高校の体育館の中は真っ暗で、隣の人の顔すら全く見えなかった。しかし、人のざわめきから避難者でぎっしり埋まっていることを知った。
「兵庫消防署です」
かすれ声だが、大きな声が出た。懐中電灯が正面に向けられ、少しでも入口に立っている人の顔を見ようという意図が知れた。
「眠れぬ夜をお過ごしでしょうが・・・」から「神港高校を死守いたします」まで一気にしゃべった。
「消防さん。がんばってね」
「頼むぞ。消防さん」
励ましの言葉と拍手を背にして高校を後にした。
ホースが延長されてきた。水圧も徐々に上がってきた。火災はまだ少し先にあり、飛び火もなさそうだ。
香川県・和歌山県・大阪付加のポンプ車が応援に駆けつけてくれた。
18日0時。ようやく火勢と消防力が均衡する。延焼をくい止めるとその余勢で火災を鎮圧させた。
3時であった。

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