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阪神・淡路大震災 消防職員手記(生田消防署)

最終更新日:2023年9月15日

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過去の教訓を忘れず(1995年3月号掲載・中谷 満)

私が所属する生田消防署の管轄区域内では日頃から違法駐車が多く、災害が発生した場合に使用できない道路があるため、私は日課として特定の区域を約1時間かけて確認することにしている。地震発生当日もいつもと同じように午前5時30分に服装を整えて、出発する準備を2階事務室でしていた。

そして、出掛けようとした午前5時46分、突然「ドカーン!」という爆発音がしたので、最初は隣の生田警察か、神戸税務署で爆弾テロでもあったのか、それともタンクローリーが消防署の1階車庫に突っ込んだのかと思った。すると、まったく動けないほどの横揺れが襲ってきたので、その時初めて地震だということが分かった。また、防火扉が閉まりかかったので、職員の退路を塞がれてはいけないと、必死で閉まるのを押さえたのと、事務室内は壁が崩れ、土煙が立ち込めていたのを覚えている。

取り敢えず職員に負傷者がいるのかを確認するため当務員全員を集めたところ、全員無事であることが確認できた。日頃から寝起きを共にしているから、顔を見れば欠けているのが誰かはすぐに分かる。庁舎内の様子から足元の安全を確保するため、特殊作業靴に履き替えるよう全員に指示した。

その時、1階受付からガス臭いという報告があった。降りてみると確かにガス臭い。車庫内に消防車両を置いていて、いざ出動というときにエンジンを掛けて爆発してはいけないし、車庫の外に出しておけば、庁舎が崩壊しても活動できると判断。ポンプ車や救急車など比較的軽量の車両を押して出すよう指示した。幸いにも車庫の前は、共同溝が敷設されているから架空電線がない。

また、地震の規模からして直感で神戸の西半分は壊滅したのではないかと思った。すぐに応急救護所が必要になると思い、仮眠用の布団を車庫内に並べ、現場指揮本部を車庫前に開設するよう指示した。ガス臭いということがあったので、場所の選定には十分配慮した。後になって振り返ると、この指示が的確であったと思う。

現場指揮所では、1名が記録を取り、私は現場に行かず部隊の編成や事案の優先順位付けといった段取りに専念することにした。情報収集には救急車のラジオを活用した。

2~3ヵ所で4~50人の群衆が見えた。この集団が一時に押し寄せて来ると指揮所が混乱を起こして収拾がつかなくなるので、「近くの避難先は、北野小学校、生田神社、神戸女子短大だ」と言って一応の収拾をつけたが、後になって北野小学校や神戸女子短大は閉鎖されていたり、生田神社は本殿が倒壊していたりして実際には避難場所にならなかったことで、お叱りを受けることになった。

応急救護所では70人ほどの応急手当をしたように思う。中でも病院での手当が必要な傷病者については、すべて神戸日赤病院に搬送した。神戸日赤病院に搬送した理由としては、大規模災害が発生した時の立ち上がりが早いこと、複数科目を診断できることがあったからだ。2~30分もすると、灘区や中央区東部の葺合地域から傷病者が流れ込んできた。

現場指揮所を車庫前に置いた理由としては、庁舎内に置くと電話による通報がひっきりなしにかかり、一つの現場に幾つもの通報を受け付けることになり、出動部隊が何隊あっても足らなくなる。これは、平成3年9月27日に台風19号で被害が発生した際、一時間に15~6件の通報があったが、3~4件の通報で現場は一つであったことがあり、本当に必要な現場なら駆け込みで通報してくれると考えたからだ。

現場指揮所を1階においたお陰でどこが燃えているとか、どこで助けを求めているなどの情報やどの道が通れないといった口コミ情報が数多く入手できた。また、対面して指示が出せたので良かったように思う。そのためか、警察や自衛隊もこちらに情報収集に来て現場対応をしていたし、他都市からの応援部隊も道路状況からここを本部と思い、集結してきた。

また、現場でショベルカーなどの重機が必要な時に、偶然にも「私の会社で重機を待機させているから必要なら言ってください」と、有り難い申し出をうけることができたように思う。

優先順位としては、第1を火災、第2に救助、第3を救急とした。手付かずの現場が出ないようにすることを考え、最初は救助隊を2班に分け現場対応に当たらせたが、現場の数が増えるに従って更に班分けをして、最大で5コ班が編成できた。1隊当たりの構成人員も最少人数として、常にポンプ隊などの1隊を留め置くように心掛けた。

「何をやっているんだ」と文句を言いに来た人には、「現場で人手が足りないから手を貸してくれ」と否応なしにお願いした。渋々手伝いをしていた人が一つの現場で救助活動の手助けをすると、「次の現場はどこですか」と言われたのが印象に残っている。

最小人数で対応したので、出動隊にはできる限り現地にいる人たちに手伝いをお願いするよう指示を出していた。

また、繰り返しになるかも知れないが、一つの火災現場には一つの隊という原則で、必要があれば増強するようにした。抜けの現場がないようにと心掛けたことでは職員が対応すれば、避難勧告などの必要な指示ができると考えたからだ。

市内各地で災害が発生していたから、無線が輻輳し、当てにならなかったので非効率だが、伝令方式を採用した。後になって聞いた話だが、自衛隊でも同様の対応をするという。

今にして思えば、もしも金曜日の夕暮れにでも地震が発生していたら、もっと大きな被害になっていたのではないだろうか。考えただけでもぞっとする。

阪神大震災 そのとき私は(1995年3月号掲載・樋口 正勝)

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私は小学校3年のとき、福井地震を経験したが、この時をはるかに超えた未曾有の大地震が阪神大震災だ。ドーンとうなる直下型で寝ていた私は布団から50センチ程放り上げられ「あー地震やぁ」と直感した。その後、今度は大きく左右上下の揺れを体に感じた。「自分の家族も家も皆終わりだなあ」

数10秒後、地震は止み、家族も皆無事なのを確かめて「ほっと」ひと安心した。

すぐに単車に乗って妙法寺を経て名倉町を通過して長田方面を見ると一面街が火の海で、その被害の大きさから、これは大きな災害だなあと思った。とっさに私は、このときこそ冷静に対応し、この災害に立ち向かわなければならないと単車のアクセルを握りしめ、全速力で生田消防署へ。

地震発生と同時に職員全員非常招集、消防署玄関は物々しい態勢で救助された人々が布団をかぶって震えている姿、目の前には今にも倒壊しそうなビル、NHKの前には無惨に倒れた電柱、まるで、この世の地獄絵化した街・・・。

息つく暇もなく火災現場まで走っていくと、3台の消防自動車が放水中、しかし、水利は地震のため消火栓は使用できず、火災現場から200メートル離れたプールを使用、消防隊員14名、消防車3台(内1台は梯子車)この消防隊は非常招集で集まった職員で編成された増強隊だ。徒歩や自転車で集まった職員で、中には三田から1時間かかって単車で駆けつけた職員もいた。火災は3階から4階に延焼中であり、避難した5階の住人から「私の家を守ってください」と懇願された。しかし、機関員の岩佐士長に「プールの水はどの位あるか」と聞くとあと50センチ位だと言う。住人から「消防さん頼りにしてまっせ!」「まかせとき」といいながらも不安が一杯の消防活動でした。(この規模の火災なら通常は15台の消防自動車が出動しているはずであった。)

放水時間5時間30分、午後1時鎮火、消防自動車3台、その後の応援隊はなし、プールの水は残り後僅か5センチ、櫛橋中隊長の指揮のもと、4階で頑張ってくれた大槻小隊、3階を担当した鳥井小隊、梯子隊の坂本士長、そして遠方から単車で駆けつけた前田主任、機関を担当してくれた岩佐、名越士長・・・私も消防暦37年、鎮火したときに被災家族、野次馬、北野小学校へ避難する住民の方々、そして近隣の人々とともに喜び、ほっとした消防隊員のあの時の顔は、いまだに忘れることができない。

今後このような災害に立ち向かうためには、街には水利(飲料水を含む)や避難場所など十分に確保できるような安全な街をつくるように努めなければならない。今こそ経験した消防職員がリーダーとなって市民とともに災害のない街づくりをするように知恵をしぼらなければならない。

阪神大震災(1995年3月号掲載・渡海 正則)

須磨管内の建物火災より帰署し、受付勤務を交替し、約30分後の5時46分。ドドド・・・・・・という音とともに、座っていたイスの下から、床が突き上げられるように上下左右に揺れだした。受付のドアを開けに行こうとしたが、さらに揺れは激しくなり、身動きがとれなくなりイスに座っているのがやっとの状態であった。

揺れがおさまり、受付のドアを開けようとしたが、歪んで開かず、やむなく受付横のわずかに開いた窓よりガレージに脱出した。

5時47分、ガス臭が辺りに立ち込めており、直ちにガスを遮断、全員で消防車両をガレージ外に押し出す。(署前に付近住民が続々と集まり出す)

5時50分 署前で倒壊した木造アパートの2階部分より助けを求める声が・・・・・・最初の救助活動現場となった。2階部分まで瓦礫の上を伝い子供を含む合計4名を抱きかかえで救出、さらに倒壊した1階部分に男性1名が生き埋めの状態になっており、消防隊も救出活動に加わり、瓦礫を排除し無事救出。(この間にも、かけ込み通報が殺到する)

6時30分 そのアパート東隣りのマンションの2階、3階でも要救助者数名を確認、3連梯子を各階に架梯し、隊員1名が進入、要救助者にサバイバースリングを縛着し、かかえ救出により救出、7時ごろまでに、このマンションの3ヵ所より計10名を無事救出(同様の事案が他で2件発生、合計3名救出、また、このマンションでの救出活動中にも別件で出動、小隊は二分され1名を救出)

8時00分 撤収作業中、付近住民より救助要請。木造アパートが倒壊し、数名が生き埋めになっているとの事。救助工作車より検索棒バールを持ち出し、小隊長以下3名で現場に向かう。

8時02分 現場到着し、状況確認するとアパートの2階は、なんとか原型をとどめているものの1階は完全に倒壊し、地面からは、僅か50センチ位の高さになっていた。だが、その奥深くからは男女の声がかすかに聞こえた。生存者がいる・・・・・・励ましながら倒壊した1階部分からの声のする方向に瓦礫の除去を開始、バール、のこぎり等では、思うように作業ははかどらない、ましてや隊長以下3名では、現場付近に居合わせた男性5名に救出作業の協力を依頼、快く引き受けてくれた。

8時30分 1メートル掘り進むのに10分、いや20分はかかったであろうか、しかし、少しずつではあるが要救助者に近づいているはずだ。

進入方向確認のため、こちらから瓦礫の中へライトを照らすが、まだライトの光は、届かないようだ。やがて男性の元気な声がして、別の部屋では、やや取り乱した声で母親と娘が助けを求めている。二手に分かれて私は、母親と娘の救出にあたる。大きな柱が邪魔で進めず、のこぎりもなかなか歯がたたない。余震が気になる・・・・・・。

9時00分 再びライトで瓦礫の中を照らす「見える!」と声がした。余震は気になるが作業に拍車がかかる。

9時20分 僅か開いた穴の向こうに寄り添って座っている母娘がライトの光に照らし出された。幸運にも高さ80センチほどの空間が2人の命を守った。

「もう少しだ、がんばれ!」

9時30分 ようやく約30センチ四方の開口部ができた。2人ともケガはないようで娘の方から出てくるよう指示。狭い穴から抱きかかえて救出。作業に協力してくれていた男性らに手渡され、生田消防署まで搬送するよう指示。続いて母親も9時40分ごろ無事救出された。(作業に携わった全ての人から喜びの声が)

9時40分 母親からの情報により隣室のおばあさんの検索を開始、再び先と同じ進入口より進入、さらに北側へ掘り進んだ。

10時00分 かすかな声がした「息が苦しい!」ライトを照らしよく見るとタンスの下から足先が見える。ここだ!

10時20分 タンスを動かすことは無理。バールで少しずつ破壊し除去。足元から引っぱり出し、10時30分、3人目を救出。(この間二手に別れて、男性の救出にあたっていた隊員が、コタツの下にいた17歳の男性を無事救出)

10時30分 さらに次の情報では、一人暮らしのおじいさんがいるとの事。すぐさま同じ進入口より進入し、さらに南側へ進入、声の確認はとれるもののライトの光も届かず、埋まっている状態から見てここからの救出は無理と判断。

10時35分 生き埋めになっていると思われる場所の直上(2階)からの救出を試みる。2階の部屋の畳・床をはがし、1階の天井部分を破り、木片等を除去し、ようやく要救助者を発見、身体も挟まれている所もなく10時45分ごろ無事救出。

10時45分 この地震で救助活動を開始し、私が始めて目にした死亡者を確認。先ほどの男性を救出した部屋の南隣りの部屋であった。そこでは母親の死が信じられず取り乱した状態の息子(30歳くらい)が必死に我々に訴えた。

「助けてやってくれ」

状態を確認すると1階の部屋でベッドで眠っていた母親の下半身に柱状の角材等瓦礫がのっており、今日のこれまでの現場では最悪のものであった。死亡している旨、息子に話すが、納得してもらえず、少しでも生存の可能性が高い現場へ向かいたいという思いと、息子の悲痛な叫びに板ばさみとなり、しばし、その場から動けなかった。

10時50分 救出作業開始、まずはベッドの足をのこぎりで切断。ベッドを低くして、ベッドと瓦礫の間に隙間を設けようとしたが、想像以上の圧迫を受けており、人力では救出不可能と判断。

10時55分 救助器材を取りに、救助工作車に戻るが、器材は、ほとんど他の現場に持ち出されていた。署の救助器具倉庫から器材とガレージにあったガレージジャッキを現場に搬送。

11時00分 狭い活動スペースで、辛うじてジャッキが設定された。「これで救出できる」とジャッキアップする手に力が入る。しかし、びくともしない。隊員全員に焦りの表情が・・・・・・。

13時40分 ジャッキの設定場所を変え、同じ作業を何度となく繰り返した。重機がなくては無理だ。息子にもう一度、説得をしようとしたが、この時、すでに現場からは立ち去っていた。途方に暮れている間はない。自分の無力さを痛感し、後ろ髪を引かれる思いで次の現場に走った。

阪神大震災(1995年3月号掲載・岡田 幸宏)

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5時46分の大地震が発生し、私が救助隊として活動した震災で一番思い出のある現場について書きたいと思う。

5時50分頃から7時30分頃までの1時間40分の間に消防署前のアパートを最初に中山手通2丁目周辺でアパート・マンションと5対象、計20名の生存者を救出する。

7時30分頃、現場責任者の中谷係長の一旦署に帰って来いとの指示があったので、一旦帰署しようとしていた時、萬寿殿前にて住民(若い男性)に呼び止められ、「向こうのアパートが潰れ中に2人埋まっている」と強引に腕を引っぱられ連れていかれる。

大正銀行の裏手に差し掛かると付近一帯の木造の民家・アパートがすべて倒壊していた。

その中で○○荘という古い木造のアパートの一階が完全に潰れ、アパート入り口付近に女性が両手を合わせ祈っている姿が見られたので「どうしましたか」と尋ねると、「1階の一番端の部屋に息子が埋まっています」とのことだった。私は「わかりました、すぐ救出します」と言ったあと隊員3名で倒壊している1階部分で「誰かおるか。どこや」と声を掛けながら中の人の反応を窺った。

まず最初に「はい、ここです」と元気な男性の声が返ってきた。「だれや」「○○○○です」「消防署や。今から助けに行くから待っとけよ」すぐに入口の母親に声が聞こえたと伝え、我々3名では、手が足りないと判断し、道路に避難している住民に「誰か協力してください」とお願いすると20歳ぐらいの男性4名と40歳ぐらいの男性1名計5名が「手伝います。協力します。」と名乗りあげてくれた。「誰かおるか」と反応を待っていると中央付近から女の人の声で「私らここに居ます」「何人おるねん」「私ら二人とおばさんです。しかし、おばさんがタンスの下敷きで今にも死にそうなんです。早く出してあげてください」

私ともう1人の隊員2名が中央の3名を担当し、もう1名の隊員は、高校生を担当させ、協力者には瓦礫の除去の補助に当てさせた。

今にも2階部分が崩れそうな1階部分の瓦礫を少しずつ取り除き奥へと進入していった。

作業している間も余震が数回襲ってきており、建物が「ミシミシ」と音が鳴る。その度、2階が潰れたら我々3名は、死ぬんやろなと思いつつ余震の恐怖と人命救助という使命感との狭間での救出活動だった。

強力ライトを照らし「このライトの光がわかりますか、見えますか」「見えます」との声の方向に瓦礫を除去し、子供、母親の順で親子2名を作業開始から1時間15分かけて無事救助した。

母親が泣きながら「おばあちゃんが、おばあちゃんが・・・」と我々に訴えていた。

私は、1分でも早く助けなければとその時は思い、余震の恐怖はなく早く助けるぞというように気持ちが変化していた。

隊員1名を親子の居た住居部分に進入させ、おばあさんの確認をさせるも「おばあさんの姿が見えません」との返事。「タンスはあるか」「あります」というやり取りがあり、タンスの物入れ部分をとり除き、型枠部分を破壊し、おばあさんを救出したのが作業開始から1時間40分。

おばあさんは自力歩行ができず担架もないので毛布にくるみ、協力者に消防署まで運んでもらった。この時、本署から1回目の伝令が来て「係長があと何分かかるか要救助者が何人」といった内容だった。「あと2名くらいだと思う。時間は30分ぐらい」と答えた。

まだ高校生は建物の中で隊員が検索していた。更に「誰かおるか」と反応を試みる。「はい」とかすかな男の人の声が聞きとれた。

これ以上、建物横からの進入は無理だと判断し、2階部分から縦の進入方法に切り替える。

声の位置と2階部分の間取りを確認した後、畳をはぎ床板を取り除き、もう一度、声の反応を試みるも声の位置が少しずれている。ライトの光を当ててみても見えないとの反応、声の方向からして押入れの下ぐらいと判断し、作業再会。この時、本署から2回目の伝令が来た。「係長から一旦帰署せよ」との内容だった。

私は一旦1人で帰署することを隊員に伝え、その場を離れた。

係長に報告した後、もう一度○○荘に向かう。

2階に上がり、押入れの床板を取り除きライトの光を当てると「見えます」との反応があった。

この時ぐらいに高校生を救出したと隊員から報告を受け、3名で瓦礫を少しずつ取り除き頭の形が見えた時、「おじさん、ようがんばったな。もう少しの辛抱やですぐ出すで」と励まし救出したのが作業開始から2時間30分も過ぎていた。

次に隣の部屋に行くと、30歳くらいの男性と○○荘の大家さん2名が2階中央の畳をはぎ床を取り除く作業をしていた所だった。「人が居るんですか」「おるんや、俺の親や、はよ出したらんかい」と我々3名に詰め寄ってきた。「どこですか」「この下や」「どの辺ですか。すぐ出しますから」

位置的に先ほどと押入れ下ぐらいだろうと判断し、押入れの床板を取りはずし、瓦礫を少しずつ除去するとベットに寝ている状態の母親を確認する。母親の腹部には、2階部分の梁が乗った状態発見するも、すでに死亡と判断できる状態だった。

この時が初めて私の震災での死亡者との出会いだった。

息子が「お母さん」と顔を撫でながら、その場に泣き崩れ一言「大事に扱ってください」と言い残し、この場から姿が見えなくなっていた。

この一言にふと我に返り、もし私が同じ立場で身内が発見され、消防隊が生存者優先との理由を述べて、その場を立ち去ろうとしたら、「なんで身体の一部が見えているのに救出してくれないんだろう」と思い、消防を恨むかもしれないと思った時、これは何が何でも出さなければ、出してあげないといけないと思った。

現在、持ってきているのこぎり、検索棒、バールでは対応できないので署に道具を取りに行かせ、油圧ジャッキなどを持ってきて、梁部分と一階床との間にジャッキを固定し、間げきを作ろうと試みるも、びくとも動かない。

それではベットの足を切断しベット自体、低くすれば間げきができると試みるもベットの足が切断できない。毛布を引っぱってもダメ、いろいろな方法を試すも時間のみ経過し、救出することができない。救出できない自分自身への苛立ち、すでに母親救助に3時間を経過し、○○荘に5時間近く要している。もう我々のできる限界にきている。

息子さんに会って我々は、これだけがんばったけど今の資器材では、限界ですと打ち明けようと私自身の気持ちが弱気になってきた。この場を見切ろうとしている。また周りには、潰れた建物の中に生存の可能性のある人がたくさんいる。この場を見捨てるんではなく大型機器(重機)が到着次第戻ってくるんだ。それまで他の人を一人でも多く救出したい。させてほしいと思うようになり決断し始めている自分がそこにいた。

息子さんを探すも、なかなか見つからない。しかし、この言葉を伝えなければ立ち去れない。いつ見つかるか分からない息子さんを待つわけにもいかない。周りに助けを求めている人が大勢いると思った時、毛布を母親にかぶせている私がいた。私は救助隊になってから隊員の時、隊長になった現在に至るまで、このように途中で止めたことがなく、たとえ死亡と判断できる状態でも救出してきた私が今、その場から立ち去ろうとしている。

私は救助隊として救助のプロとして失格かもしれない。あの時、私は一人、その場に残って息子さんに会い、一言説明し、詫びれば良かったかもしれない。

この一つの現場が今まで何100人という人の命を救出し何100人という人の生と死に直面してきた私の心にいつまでも残るだろう。

お問い合わせ先

消防局予防部予防課