応接間

最終更新日:2020年11月4日

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応接間

暖炉、ステンドグラス付の扉、3枚の引き戸
(照明は当時のものを復元)

『細雪』より引用

いったいこの家は大部分が日本間で、洋間と云うのは、食堂と応接間と二た間つづきになった部屋があるだけであったが、家族は自分達が団欒(まどい)をするにも、来客に接するのにも洋間を使い、一日の大部分をそこで過すようにしていた。それに応接間の方には、ピアノやラジオ蓄音器があり、冬は煖炉(だんろ)に薪を燃やすようにしてあったので、寒い時分になると一層皆が其方(そちら)にばかり集ってしまい、自然そこが一番賑かであるところから、悦子も、階下に来客が立て込む時とか、病気で臥(ね)る時とかの外は、夜でなければめったに二階の自分の部屋へは上って行かないで、洋間で暮した。二階の彼女の部屋と云うものも、日本間に西洋家具の一揃が備えてあって、寝室と勉強部屋を兼ねるようにしてあったのだけれども、悦子は勉強するのにも、ままごと遊びをするのにも、応接間ですることを好み、いつも学校用品やままごとの道具をそこら一杯散らかしているので、不意に来客があったりすると、よく大騒ぎをすることがあった。(上巻8章)

そう云えば、先日から数回、いつも悦子が寝てしまってから、夜の十時過ぎ頃に、貞之助、幸子、雪子、時には妙子も加わって、応接間で今日の見合いのことについて相談したことがあり、そこへお春が時々飲み物などを運ぶのに、食堂を通って這入って来たが、その食堂と応接間の境界は三枚の引き戸になっていて、戸と戸の間が指が入れられる程透いているところから、食堂にいると応接間の話声が可なりよく聞えるのであった。(上巻9章)

解説

「細雪」の家族が一番よく利用する「洋間」は、広さ10畳、北側のドアの左側にマントルピースがある。倚松庵の心臓部ともいえるこの部屋は、「細雪」の中でも一番よく出てくる場所である。家族の団欒、来客の応待は主としてここで行なわれ、蒔岡家の<陽>なる部分の象徴になっている。

大阪の中でも最も歴史の古い上町台地の中心上本町に、伝統的で典型的な町家の家造りを保っている蒔岡本家。一方、船場商人の店宅分離の時流にのり急速に発展した阪神間の中でも最も新しい芦屋市(市制施行は昭和15年)に、蒔岡の分家はある。隣家はドイツ人家族。没落せんとする<旧>に対抗する形で貞之助-幸子の<新>家族が描かれる。

食堂と続き間になった板敷の、マントルピース、ステンドグラスのある応接間、玄関から一直線に伸びる中廊下―それらはすべて新家族の象徴であり、新しい形での<上流>のステータスシンボルである。

倚松庵の外観が持つ純和風のイメージは、この洋間に入ると、鮮やかに衝撃的にうちくだかれる。谷崎がこの家に愛着したのも、その文学の誕生時代にあれほど憧憬した<西洋>の匂いと、関西移住後急速に惹かれつつあった<旧き日本>のそれとの鮮やかな調和ゆえではなかったか。

中巻の冒頭の第2、第3章では、3枚の引き戸が取りはらわれた「二た間つづきの洋間」で、山村舞のおさらい会が催され、妙子が着物姿で地唄舞「雪」を舞う。妙子の巻とも言うべき中巻の、華やかな幕あけである。

倚松庵はもともと家主後藤ムメさんと夫レノール氏(ベルギー人。当時、神戸領事館勤務)が、自分達の住居用に建設した家であった。従って天井が高く、このように広い洋間が設けられ、随所に西洋的合理主義が見られるのである。

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