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更新日:2019年11月1日

神戸の戦災 戦争体験談「川西航空機製作所の空襲」

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川西航空機製作所の空襲 有末さん(須磨区)

私が生まれたのは昭和5年2月。11年に小学校入学。小学2年に盧溝橋事件に始まる日中戦争が勃発した。
小学6年に太平洋戦争が始まり、戦時中に義務教育を修了した。(小学校も国民学校と変わる。)
学校ではあまり勉強はせず、食糧増産で農作業が多かった。
昭和18年国民学校卒業後、直ちに軍需工場に田舎から集団就職したのである。当時14歳。就職先は海軍軍用飛行機の製造工場川西航空機製作所に入社した。入社して寮生活をする、当時は各地から集団就職で徴用令を受けた者や勤労報国隊、学徒動員、女子挺身隊や海軍召集兵など、国を挙げて働ける者はすべて戦列につき、一億総動員化がかけられていた。私たちは入社2年目から昼勤務、夜勤務と2交代制になった。(当時15歳)
当時食糧難で毎日の食事は豆粕の入ったご飯で、まずくてただ空腹を紛らわすだけのものであった。私は栄養失調となり田舎の両親に大変心配をかけた。
19年12月頃から空襲警報が掛かりだし、夜勤務から寮に帰り寝ている時に飛び起きて、寮の横に作られていた屋根の無い防空壕に逃げ込んだ。その上空をB29爆撃機1機が低空を悠々と飛んで宝塚劇場方面に行き、すぐに折り返し避難をしている上空を通り帰っていった。(それは偵察機で後日空襲を受ける)その後空襲警報が度々出るようになり、仁川ゴルフ場や甲山に避難をよくした。
工場の仕事はだんだんと出来なくなり、その内に仁川ゴルフ場に仮設工場が出来て工場の移転作業をするのが日課となり、私達は馬車を借りてきて機械や部品を積み、馬が居ないので馬の代わりに大勢の人間が太いロープで引っ張り、仮設工場に運び込んだのである。その間にも度々空襲警報があり山に避難をした。
昭和20年に入り空襲が激しくなり、3月17日は神戸大空襲。5月頃からは西宮・芦屋・尼崎の阪神間が焼け野原となった。その頃夜は攻撃機が照明弾を投下して真昼のようにしてから、焼夷弾を投下して街中を火の海にした。
その後私たちの工場に艦載機の機銃掃射が始まり、多くの会社員は苺畑に入り避難をした。そのところを銃撃され殆どの者が死亡した。私達は6名程が村の神社に逃げ込み、それが見つかり機銃掃射を受け、大樹を盾に飛行機が急降下してくる方向を見ながら、死に物狂いで銃弾を避け大樹の周りを逃げ廻り命拾いをした。その時の恐怖感は今も忘れずにいる。
私達の工場は仮設工場に移転も終わり、これから生産に入る様になったが、昭和20年7月24日、本社工場がB29爆撃機と小型機150機による大爆撃を受け工場は瓦礫の山となり、工場内の防空壕では婦女子や職工など83名が犠牲となられた。私は運よくゴルフ場の仮設工場にいた。しかし、1トン爆弾の投下された時はゴルフ場の小川にある土管の中に入り、水の無い所に伏せて目と耳を両手で押さえていた。爆弾の破裂するたびに地鳴りと爆風の生温かい風が押し寄せ、生きた心地はしなかった。ようやくあたりが静かになった夕方に寮に帰るも、跡形もなく寝る所が無いので小学校に泊ることになり、真っ暗な夜道を学校に向かった。学校に着くと昼間の爆撃で亡くなられた多くの遺体が安置されていたのであった。この日から食事も無い時が多く食べたり食べなかったりの日々が続いて、其のうち8月15日が来て終戦となる。

(平成18年8月1日号 広報こうべ 紹介記事掲載)

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