恐ろしい空襲の記憶

最終更新日:2023年8月29日

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恐ろしい空襲の記憶 野田康夫さん

1945年3月17日2時29分。「康夫!起きい!」と母に起こされると、空襲警報が鳴っていました。とっさに防空頭巾をかぶって玄関まで行くと「ザーッ」という大雨が降るような音が聞こえました。それは無数の焼夷弾が降ってくる音で、家の前にも落ちました。当時9歳だった私は、幼いながら母を守ろうという一心で、シャベルをたたきつけ、消火しようとしました。しかし、焼夷弾がシャベルにくっついて取れなくなり、火は消せませんでした。
そのうち、近くの木造の家に火が付き、すぐに隣家に燃え移り、まるで火のカーテンのような光景に。私は母と、すぐ近くの湊川神社まで一目散に逃げました。逃げ遅れた人たちはみんな亡くなったと思います。神社の近くの鉄塔が、焼夷弾の直撃を受け、ぐにゃっと折れ曲がり、それに挟まれて亡くなっている人もいました。焼夷弾の直撃を受けた人は真っ黒焦げで即死でした。
当時、全てが灰だったこのまちが今の状態になったのは、みんなの力で神戸をつくりあげたから。これからもこのまちを大事にしてほしいと思います。

(広報紙KOBE2016年8月号掲載)

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