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疎開から戻って見た何もない神戸

最終更新日:2023年8月29日

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疎開から戻って見た何もない神戸 中岩清秀さん

小学3年生のとき、集団疎開か縁故疎開か、2つの選択肢が与えられました。私は縁故疎開を選び、祖父が生まれた和歌山県の遠い親戚の家に預けられました。神戸は水道が発達していましたが、疎開先はまだ井戸水で、何度もくみ上げる必要がありました。井戸は離れた所にあったので、くみに行くのが大変でしたが、親戚の言うことは何でも聞きました。「欲しがりません勝つまでは」と教え込まれていたからです。
1945年6月5日の空襲で、祖父母と母、妹、弟を亡くしました。それを知ったのは、祖父の兄が疎開先に迎えに来た7月中旬のことでした。遺骨も残らず、悲しみの感情すら湧きませんでした。
神戸の三宮に戻ると、私の知っているまちは一面焼野原になっていました。8月15日に終戦の放送を聞くまでの間にも空襲警報は発令され、そのたびに近くの神戸電鉄のトンネルに避難したことを覚えています。
戦争は「自分さえ良ければそれでいい」という自己中心的な考えによって引き起こされると思います。皆さんには、相手を思いやる気持ちを大切にしてほしいと願っています。

(広報紙KOBE2016年8月号掲載)

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