ホーム > 市政情報 > 神戸 災害と戦災資料館 > 神戸の戦災 > 戦争体験談 > 家の柱すら残らなかった空襲。「本当に恐ろしかった」

家の柱すら残らなかった空襲。「本当に恐ろしかった」

最終更新日:2023年8月29日

ここから本文です。

家の柱すら残らなかった空襲。「本当に恐ろしかった」 墓越有紀子さん

1945年3月16日の夜、警報の音で飛び起きました。小学4年生だった私は、母、弟と、真っ暗な有馬街道を走り山へ逃げ込み、なんとか空襲を逃れました。翌朝、祇園神社から街を見下ろすと、たくさんあった家が焼けて、真っ黒でぐちゃぐちゃに。何も残っておらず、海がよく見えました。私の家も跡形も無く、途方に暮れました。

小学5年生のとき、学童疎開先でクラスの皆と田んぼ道を歩いていると、グラマンという戦闘機に襲われました。先生の「早く土手に降りて!」と叫ぶ声を聞き、無我夢中で土手に飛び降りると、バラバラバラ!と機関銃で銃撃してきました。そのときに見えた笑っている戦闘員の顔が、今も脳裏に焼き付いて、忘れられません。誰にも弾は当たりませんでしたが、「殺されるかも」と思い、本当に恐ろしかったです。

戦後、叔父からいとこの敬一と多年子(たねこ)が1945年6月5日の空襲で亡くなったと聞きました。敬一の海軍入隊祝いに、子どもを疎開先から三宮へ呼び戻して鍋を囲んでいた時、空襲にあったそうです。敬一の「皆、先に逃げろ!」と張り上げる声を背に逃げたことが悔やまれる、と叔父は泣きながら話しました。2人の遺体すら見つけられなかったそうです。胸が痛む残酷な話です。

今、自由に勉強ややりたいことができるのは、平和だからこそ。戦争の恐ろしさを知り、平和への感謝を忘れないでほしいです。

(広報紙KOBE2021年8月号掲載)

お問い合わせ先

行財政局総務課