疎開先でのつらい日々

最終更新日:2023年8月29日

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疎開先でのつらい日々 田中孝夫さん

当時、小学生は未来の日本を担う存在だと、大事にされていたので、生徒はみんな疎開先に身を潜めていました。疎開先での生活は、それはつらいものでした。小学6年生で淡路に疎開した時は、毎日食用カエルなどを食べていました。その時はまだお米を食べることができたのですが、次の疎開先の佐用では、とにかく食料がなかった。毎日はったい粉を食べていましたが全然足りず、常におなかをすかせていました。その経験もあり、私は嫌いな食べ物はありませんし、残すなんてこともありません。

神戸に戻ってきた時には、街のあちこちに焼夷弾の跡があり、私の家の3軒隣まで焼き尽くされていました。最終的には、JR六甲道駅から阪神御影駅や御影公会堂まで見通すことができるくらい、跡形もなくなりました。

次の世代にはかつてのような経験をしてほしくありません。戦後70年以上続いた平和な生活がこれからも続いてほしいです。

(広報紙KOBE2018年8月号掲載)

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