空襲の悲痛な記憶

最終更新日:2023年8月29日

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空襲の悲痛な記憶 兼行秀明さん

中学生になったばかりの時に神戸空襲がありました。私は平野の祇園神社に避難していました。焼夷弾がたくさん降ってきて、地面に落ちて燃え上がる、それが朝まで何度も繰り返されたのです。不運にも、大倉山に避難していた当時19歳だった姉に焼夷弾が直撃し、お腹を貫通しました。一緒に病院に行くと、至る所に死人の山が。体中に大やけどを負い、熱い、熱いと言う姉。医者に、このままでは破傷風になる危険があり命が持たないと言われ、姉はその場で麻酔もせずに、左足の太ももから下を切り落としました。その後、右足も切り落とさなければならないと言われましたが、姉はそれを拒み、1週間後に亡くなりました。その時のことを今でも鮮明に覚えています。

私は空襲を生き延びましたが、とにかく食べるものがなくてつらかったです。配給がありましたが、最初は米だったのが、麦、豆へと、どんどん十分なものではなくなっていき、最後にはぬかを食べて過ごしていました。味がないので、須磨まで海水をくみに行って、塩の味付けをして食べたこともあります。

戦争中は、生きることで精一杯でした。平和で自由になった現在、若い人には一人一人が今を大切に生きてほしいと思っています。

(広報紙KOBE2019年8月号掲載)

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