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更新日:2019年11月1日

こうべキッズ百科:生活・自然(山)

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六甲山系(ろっこうさんけい)

六甲山系(ろっこうさんけい)は、東六甲(ひがしろっこう)から摩耶山(まやさん)、須磨(すま)までの山々(やまやま)からなりたっています。
これに、帝釈山系(たいしゃくさんけい)とよばれる有馬(ありま)から帝釈山、三木市(みきし)までの山々をくわえて六甲山地(ろっこうさんち)と呼(よ)びます。

六甲山系は東側(ひがしがわ)が高(たか)く、西側(にしがわ)へいくにつれてゆるやかになっています。また、六甲山地は南側(みなみがわ)からみると堂々(どうどう)とした山にみえますが、北側(きたがわ)や西側からは、ゆるやかな丘(おか)のようなかたちにみえます。

六甲山系は、おもに、アカマやシイ、カシなどの木(き)に覆(おおわ)れていて、おおくのしゅるいの野鳥(やちょう)もみることができ、大都会(だいとかい)の近(ちか)くにのこされたたいせつな自然観察地(しぜんかんさつち)です。

六甲山系の地層(ちそう)は、そのほとんどが、花崗岩(かこうがん)とよばれる、マグマが地下深(ちかふか)くでひえてかたまった岩(いわ)でできています。
六甲山系は、いまから100万年前頃(ひゃくまんねんまえころ)から近畿地方(きんきちほう)の大地(だいち)が東西(とうざい)からおされ、その力(ちから)で地面(じめん)がもりあがってできたということがわかっています。

地面は強(つよ)い力(ちから)で押(お)されると、地層(ちそう)にひびが入(はい)ってずれてしまいます。地層がずれるときには地震(じしん)がおきます。この地層がずれたところを断層(だんそう)といいます。
阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)は、昔(むかし)から地面のしたにあった断層が、またずれておきました。このような断層のずれと、地震の繰(く)り返(かえ)しで、いまの六甲山系がつくられたといわれています。
地震のあと、六甲山では12センチメートル、断層の東側にある淡路島(あわじしま)ではおよそ1メートルも地面が高(たか)くもりあがったことが確(たしか)められています。

灘区(なだく)にある摩耶山の高さは702メートルです。806年(ねん)に、弘法大師(こうぼうだいし)が唐(とう)(いまの中国(ちゅうごく))から帰(かえ)って来(く)るときに、お釈迦(しゃか)さまの母(はは)にあたる、摩耶夫人像(まやぶにんぞう)をもってきてまつったことから、摩耶山という山の名前(なまえ)がついたといわれています。

夜(よる)は、展望台(てんぼうだい)「掬星台(きくせいだい)」からの眺(なが)めが見事(みごと)で、そこからみえる神戸(こうべ)の夜景(やけい)は、「1000万(まん)ドルの夜景」といわれています。
掬星台という名前(なまえ)は、満天(まんてん)の星空(ほしぞら)があまりに近(ちか)く、星(ほし)が掬(すく)えそうだということからつけられました。
また、摩耶山では、「神戸市民(しみん)の花(はな)」にもなっている初夏(しょか)のあじさいも見事(みごと)で、毎年(まいとし)楽(たの)しみにしている市民も少(すく)なくありません。

掬星台にはケーブルカーとロープウェーにのっていくことができます。最初(さいしょ)は、標高(ひょうこう)451mのところにある虹(にじ)の駅(えき)までケーブルカーで登(のぼ)ります。この虹の駅は大正(たいしょう)14年につくられ、いまもそのままの姿(すがた)で残(のこ)っています。そこからロープウェーにのりりかえると、今度(こんど)は空中(くうちゅう)に浮(う)いているような気分(きぶん)をかんじながら、標高700mの星の駅まで登ると掬星台につきます。掬星台からは、すばらしい景色(けしき)をみることができます。

掬星台展望

掬星台夜景1

掬星台夜景2

 

六甲山(ろっこうさん)


今(いま)から100年前(ねんまえ)のようす

六甲山(ろっこうさん)は高(たか)さ931.3メートルです。

六甲山の名前(なまえ)の由来(ゆらい)は、難波(なんば)の津(つ)(いまの大阪(おおさか))の「向(む)こう(むかい)=ムコ」からきていると言(い)われています。ムコの湊(みなと)の北に連(つ)らなっている山なので「ムコ山」と呼ばれ、のちには「ムコ」に「六甲」という漢字(かんじ)があてられて「ロッコウサン」と呼ばれるようになりました。

むかしから六甲山は、人々(ひとびと)のくらしに必要(ひつよう)な材木(ざいもく)、巻(ま)きや柴(しば)をとり、炭(すみ)を焼(や)いたり、花崗岩(かこうがん)を切(き)りだす山として利用(りよう)されてきました。
そのため、六甲の森(もり)はどんどん荒(あ)れはててしまいました。六甲山は、今ではすっかり緑(みどり)におおわれ、国立公園(こくりつこうえん)にも指定(してい)されています。しかし、神戸港(こうべこう)が開(ひら)かれたころは、六甲山のほとんどが荒れた禿(は)げ山だったといわれています。

1895年(ねん)(明治(めいじ)28年)にイギリスの貿易商(ぼうえきしょう)、アーサー・ヘスケス・グルーム氏(し)が、六甲山に別荘(べっそう)を建(た)てました。そして、1901年(明治34年)には、日本(にほん)で最初(さいしょ)のゴルフ場(じょう)をつくりました。六甲山は、神戸に住(す)んでいる外国人(がいこくじん)たちの避暑地(ひしょち)として、開発(かいはつ)されはじめました。

1902年(明治35年)には、荒れた山地(さんち)に、土砂崩(どしゃくず)れや災害(さいがい)などを防(ふせ)ぐ目的(もくてき)で木々(きぎ)が植(う)えられました。
それ以来(いらい)、100年をかけた緑を守(まも)り育(そだ)てる作業(さぎょう)は、今も引(ひ)き続(つづ)き行(おこな)われています。

また、こういった緑を守り育てる作業を学(まな)ぶ場として、「こうべ森の学校(がっこう)」「こうべ森の小学校(しょうがっこう)」の活動(かつどう)が行われています。

しかし近年(きんねん)は、森と暮らしとのつながりが少(すく)なくなったため、手入(てい)れが行(い)き届(とど)かず、山が荒れているところもあります。
神戸市では、今の緑豊かな安全(あんぜん)で美(うつく)しい六甲山を未来(みらい)の人たちにも引き継(つ)いでいけるよう、市民・会社(かいしゃ)・行政(ぎょうせい)(=国(くに)、県、市の役所(やくしょ))などが力をあわせて、六甲山の森の手入れをつづけていく仕組(しくみ)づくりを進(すす)めていきます。

※避暑地...暑(あつ)さを避(さ)けるためにいく涼(すず)しいところ

今から100年前のようす1

今から100年前のようす2

今から100年前のようす3

アーサー・H・グルーム

アーサー・ヘスケス・グルームは、1846年(ねん)にイギリスのロンドンで生(う)まれました。

1868年(明治元年(めいじがんねん))に神戸(こうべ)を訪(おとず)れ、グラバー商会(しょうかい)に勤(つと)めました。その後、自分(じぶん)で会社(かいしゃ)をつくり、外国人居留地(がいこくじんきょりゅうち)の101番(ばん)で、日本茶(にほんちゃ)を輸出(ゆしゅつ)しセイロン紅茶(こうちゃ)を輸入(ゆにゅう)する貿易商をしていました。

また、1895年(明治28年)に、六甲山(ろっこうさん)の三国池(みくにいけ)の近(ちか)くに土地(とち)を借(か)りて家(いえ)を建(た)てました。これが六甲山上に最初に建てられた家で「101番屋敷(やしき)」とよばれました。

その後もグルームは、1901年(明治34年)、六甲山に4ホールのゴルフ場を開(ひら)きました。これが、日本で最初のゴルフ場です。2年後には9ホールに増(ふ)やしました。

はじめて、六甲山をレジャーや憩(いこ)いの場として開発したグルームを称(たた)えるため、1912年(明治45年)に、山上(さんじょう)に「六甲山開祖之碑(ろっこうさんかいそのひ)」がたてられました。

横尾山(よこおやま)

横尾山(よこおやま)は、須磨区(すまく)にある、高(たか)さ312.1メートルの山です。
この横尾山と高倉(たかくら)山は、中央(ちゅうおう)区の人工島(じんこうとう)「ポートアイランド」をつくるための、土(つち)や砂(すな)を削(けず)った山としてよく知(し)られています。

横尾山から土(つち)や砂(すな)を削(けず)ってできた土地(とち)には、1971年(ねん)(昭和(しょうわ)46年)から1982年(昭和57年)にかけて、あたらしい町(まち)「横尾団地(だんち)」がつくられました。
山を削った後の斜面(しゃめん)には植物(しょくぶつ)を植(う)えたり、水(みず)が流(なが)れる道(みち)をつくったりして、のこった山を、まもるための工夫(くふう)もされています。

高取山(たかとりさん)

高取山(たかとりさん)は長田区(ながたく)にある高さ328メートルの山(やま)です。
「たかとりさん」ともよばれています。
江戸時代(えどじだい)の中(なか)ごろの古(ふる)い記録(きろく)では「高取山」は、漢字(かんじ)で「鷹(たか)取山」と書(か)かれているため、当時(とうじ)は高取山に、鷹をつかまえるために登(のぼ)っていたと考(かんが)えられています。

高取山には、昔(むかし)、神功皇后(じんぐうこうごう)が長田にやってきた時(とき)、そばにあった石(いし)を撫(な)でると、その石がどんどんと大(おお)きくなり、やがて山(やま)になったという言(い)い伝(つた)えがあります。
そのことから、かつては、神撫(しんぶ)山とよばれていました。

高取山は、東(ひがし)の苅藻川(かるもがわ)と西(にし)の妙法寺(みょうほうじ)川にはさまれていて、六甲山系(ろっこうさんけい)からは独立(どくりつ)した山になっています。

山頂(さんちょう)には高取神社(じんじゃ)があり、山登(のぼ)りをたのしむ人たちが毎日朝早(まいにちあさはや)くから訪(おとず)れています。

鉢伏山(はちぶせやま)

鉢伏山(はちぶせやま)は、須磨区(すまく)にある高(たか)さ246メートルの山(やま)です。

六甲山系(ろっこうさんけい)の西南(せいなん)の端(はし)にあり、ちょうど明石海峡(あかしかいきょう)を見下(みおろ)しているような格好(かっこう)です。
山の南側(みなみがわ)には須磨浦(すまうら)公園があります。山の上には遊園(ゆうえん)地もあり、梅(うめ)やさくらの名所(めいしょ)にもなっています。

会下山(えげやま)

会下山(えげやま)は兵庫区(ひょうごく)にある高(たか)さ約(やく)80メートルの小(ちい)さな丘(おか)のような山です。
東西(とうざい)に横(よこ)たわっていて、裾野(すその)は長田区(ながたく)まで広(ひろ)がっています。

湊川(みなとがわ)の戦(たたか)いの時には、楠木正成(くすのきまさしげ)が本陣(ほんじん)をこの会下山においたといわれています。

ずっと古(ふる)く奈良時代(ならじだい)には、この山(やま)が大和(やまと)(いまの奈良県(ならけん))の法隆寺(ほうりゅうじ)の領地(りょうち)であったことが、記録(きろく)にのこっています。
神戸(こうべ)についての記録では、法隆寺のこの文書(ぶんしょ)が一番(いちばん)古(ふる)いものです。

会下山一帯(いったい)からは、弥生式土器(やよいしきどき)や石器(せっき)、古墳(こふん)などがみつかっています。
山の下は、トンネルを通(とお)って新湊川(しんみなとがわ)が流(なが)れています。このトンネルをつくる工事(こうじ)の時(とき)に、昔(むかし)の建物(たてもの)の土台(どだい)になっていたと考(かんが)えられる大(おお)きな石(いし)や、瓦(かわら)などが出(で)てきました。

会下山を中心(ちゅうしん)にした公園(こうえん)は、「新・こうべ花の名所(めいしょ)50選(せん)」にも選(えら)ばれるほどの桜(さくら)の名所です。
春(はる)には約(やく)1400本(ぽん)の桜が咲き、会下山全体(ぜんたい)が花に埋(う)まります。
遠(とお)くから見(み)ると桜でできた小山(こやま)のように見えるほどです。

丹生山(たんじょうさん)

神戸市内(こうべしない)には東西(とうざい)に大(おお)きく六甲山系(ろっこうさんけい)が横(よこ)たわっています。
その六甲山系の北側(きたがわ)には、六甲山系に並んで、丹生山(たんじょうさん)系があります。

この丹生山系のあたりは、田(た)んぼや畑(はたけ)が多(おおき)く緑(みどり)の豊(ゆた)かな地域(ちいき)です。
主(おも)に灘(なだ)の酒(さけ)づくりの時(とき)に使(つか)う米(こめ)や野菜(やさい)、そして菊(きく)などがつくられています。

また、丹生山系は、歴史(れきし)の里(さと)でもあり、貴重(きちょう)な文化遺産(ぶんかいさん)があちらこちらに散(ち)らばっています。
主(おも)なものでは日本(にほん)に残(のこ)っている一番古(いちばんふる)い家(いえ)「箱木千年家(はこぎせんねんや)」や、昔(むかし)の人(ひと)が芝居(しばい)などをしていた「農村歌舞伎舞台(のうそんかぶきぶたい)」などがあります。

ハイキングコースも、ほとんどが山道や農業(のうぎょう)に使う道です。美(うつく)しい自然(しぜん)とふれ合(あ)えるように工夫(くふう)されていて、古(ふる)い神社(じんじゃ)や寺(てら)を訪(おとず)ねながら歩(ある)くことができます。

錨山(いかりやま)


錨山(いかりやま)(左(ひだり))と市章山(ししょうざん)(右) 出典(しゅってん):「新中央区歴史物語(しんちゅうおうくれきしものがたり)」

錨山(いかりやま)は高さ271メートルで、中央区にあります。
1903年(ねん)(明治(めいじ)36年)に神戸港外(こうべこうがい)で観艦式(かんかんしき)という、海軍(かいぐん)の強(つよ)くて立派(りっぱ)な様子(ようす)を、国(くに)の偉(えら)い人(ひと)たちが見学(けんがく)する儀式(ぎしき)が行(おこな)われました。この時(とき)には、明治天皇(めいじてんのう)も神戸(こうべ)を訪(おおず)れ、61隻(せき)の軍艦(ぐんかん)をご覧(らん)になりました。

神戸市民(こうべしみん)もこの観艦式に大きな関心(かんしん)をよせていました。そこで、市内(しない)の小学校(しょうがっこう)の代表者数百人(だいひょうしゃすうひゃくにん)が、諏訪山(すわやま)の北東(ほくとう)のやまの斜面(しゃめん)に、錨の形(かたち)にならんで旗(はた)をふってお迎(むか)えしました。

1907年(明治40年)、その錨の形にならんだ跡(あと)に、松(まつ)の木(き)を植(う)えて、この山(やま)を錨山と名(な)づけました。

1981年(昭和56年)からは、風力発電(ふうりょくはつでん)によって毎日(まいにち)、日(ひ)が暮(く)れてから夜(よる)の11時(じ)まで、錨の形の電飾(でんしょく)が灯(とも)されています。

この電飾を、2002年(平成(へいせい)14年)から、神戸まつりなど、市民にとっての大切(たいせつ)大切な日や祝日(しゅくじつ)だけ、青色(あおいろ)にかえることになりました。遠(とお)くからでもはっきりと見(み)えるように、3.6ワットの青色のLED電球(でんきゅう)が、184個(こ)使(つか)われています。

市章山(ししょうざん)


錨山(左)と市章山(右) 出典:「新中央区歴史物語」

市章山(ししょうざん)は、中央区(ちゅうおうく)にあり、錨山(いかりやま)の北(きた)どなりに位置(いち)しています。

1907年(ねん)(明治(めいじ)40年)に、神戸(こうべ)に湊(みなと)をつくるための工事(こうじ)をはじめることを記念(きねん)して、神戸の市章(ししょう)(の形(かたち)に、松(まつ)の木(き)が植(う)えられました。

1933年(昭和(しょうわ)8年)に「第(だい)1回(かい)みなとの祭(まつり)」が行(おこな)われたのを記念(きねん)して、市章の形にならんだ松の木に、電飾が行われました。
以来(いらい)、毎年(まいとし)みなとの祭(まつり)の間だけ、電飾(でんしょく)が点灯(てんとう)されるようになりました。
1967年(昭和(しょうわ)42年)からは「神戸開港(こうべかいこう)100周年記念(しゅうねんきねん)」として、日(ひ)が暮(く)れてから夜(よる)の11時(じ)まで、毎日電飾(まいにちでんしょく)が灯(とも)されています。

また、同様(どうよう)の電飾は、錨山と市章山の東(ひがし)どなりの堂徳山(どうとくさん)にもあります。堂徳山では、「KOBE」「北前船(きたまえぶね)(前(まえ)向き)」「北前船(横(よこ)向き)」のマークが20分(ぷん)ずつに変(か)わります。


北前船の横向きのマーク

再度山(ふたたびさん)


現在の再度山(ふたたびさん)

再度山(ふたたびさん)は、中央区(ちゅうおうく)にある高(たか)さ468メートルの山(やま)です。

今(いま)からおよそ1200年前(ねんまえ)に、弘法大使(こうぼうたいし)が仏教(ぶっきょう)を学(まな)ぶために唐(とう)(いまの中国(ちゅうごく))にいく時(とき)に、旅(たび)の安全(あんぜん)と学問(がくもん)の成功(せいこう)をお祈(いの)りしに、港(みなと)の北(きた)にある摩尼山(まにさん)へのぼりました。
そして、唐(とう)の国(くに)での学問を終(お)えた後(あと)にも、無事(ぶじ)に日本(にほん)にかえってきたことを感謝(かんしゃ)するために、もう一度(いちど)お礼(れい)参(まい)りにいきました。

弘法大師(こうぼうたいし)が2度(にど)(再度(さいど))登(のぼ)ったことから、摩尼山は、再度山とよばれるようになりました。大師が登っていったと伝(つた)えられている山道(さんどう)は、大師道とよばれています。
また、大師が修行(しゅぎょう)をしたとされる場所(ばしょ)には、修法ヶ原(しおがはら)という地名(ちめい)がつけられています。

再度山の北側(きたがわ)には再度公園、南側(みなみがわ)には大龍寺(だいりゅうじ)などがあります。
市街地(しがいち)から近(ちか)いこともあって、紅葉(こうよう)の頃には、特(とく)に多(おお)くの人(ひと)が訪(おとず)れます。


再度山の北側

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