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こうべキッズ百科:生活・自然(川)

最終更新日:2019年11月1日

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生田川(いくたがわ)

生田川の写真

生田川は布引貯水池(ぬのびきちょすいち)から、JR新神戸駅(しんこうべえき)を過(す)ぎて、神戸市(こうべし)の街(まち)の中(なか)を通(とお)りぬけ、神戸港(こうべこう)へと流(なが)れている川です。
六甲山系(ろっこうさんけい)の摩耶山(まやさん)・石献花山(しゃくなげやま)を水源(すいげん)としています。

明治(めいじ)の初(はじ)めのころの生田川は、今(いま)の川よりももっと南西(なんせい)の方向(ほうこう)の街の中を流れていました。山から、ちょうど現在(げんざい)の市役所(しやくしょ)の前(まえ)のフラワーロードに流れ出でて、港(みなと)に注(そそ)いでいました。

ところが、生田川は、しばしば水害(すいがい)を引(ひ)き起(お)こしました。溢(あふ)れた川の水が居留地(きょりゅうち)に流れ、人々を苦(くる)しめたり、溢れ出た土(つち)や砂(すな)が港へ流れ込(こ)んで、外国船(がいこくせん)が泊(と)められなくなったりしました。
そこで、加納宗七(かのうそうしち)らによって、今の場所(ばしょ)へ川がつけかえられました。

今では、川に沿(そ)った「生田川公園(こうえん)」にたくさんの桜(さくら)の木が植(う)えられ、春(はる)にはお花見(はなみ)をする市民(しみん)でにぎやかです。

水辺広場の写真

生田川水辺まつりの写真

生田川公園ふれあい広場の写真

 


加納 宗七(かのう そうしち)

1868年1月1日(慶応(けいおう)3年12月7日)の兵庫港(ひょうごこう)の開港(かいこう)と共(とも)に、当時(とうじ)の生田川の西側(にしがわ)に、外国人居留地(がいこくじんきょりゅうち)がつくられました。

そのころ、生田川は布引(ぬのびき)から加納町(かのうちょう)3丁目(ちょうめ)、市役所(しやくしょ)の前(まえ)のフラワーロードを通(とお)って税関前(ぜいかんまえ)のあたりで海(うみ)に流れこんでいました。
この川の上流(じょうりゅう)には「布引の滝(たき)」があることで昔(むかし)から有名(ゆうめい)でした。
しかし、いったん大雨(おおあめ)が降(ふ)ると川の水が溢れ、居留地のあたりが水びたしになるなど、人々を苦しめていました。そこで、川の流れを変えるため、生田川をつけかえることになりました。

川をつけかえる工事(こうじ)は、川の近(ちか)くに住(す)む人の、川をつけかえた後(あと)の土地(とち)のことなど、難(むずか)しい問題(もんだい)をかかえていました。
この工事を引き受(う)けたのが加納宗七です。加納は新(あたら)しい川を掘(ほ)り、そこから出(で)た土で元(もと)の川を埋(う)め立(た)てるなどの思(おも)いきった工事をおこないました。
工事は、1871年(明治4年)に、3ヶ月(かげつ)がかりで行いました。

昔の生田川が埋め立てられてできたのが、今の神戸まつりが行われるフラワーロードです。
その工事によってできた新しい土地は、「加納町(かのうちょう)」と名(な)づけられました。

昔、生田川が流れていた加納町3丁目の交差点(こうさてん)の脇(わき)には、当時(とうじ)のことを示(し)めす石碑(せきひ)が建(た)てられています。また東遊園地(ひがしゆうえんち)には加納宗七の銅像(どうぞう)が、建てられています。

つけかえられた今の生田川は、新幹線(しんかんせん)の新神戸駅から南(みなみ)へまっすぐに流れ、川沿いの生田川公園には、多(おお)くの桜が植えられています。

東遊園地の加納宗七像 出典:「新中央区歴史物語」

住吉川(すみよしがわ)

住吉川の写真

住吉川は六甲山地(ろっこうさんち)に水源(すいげん)を持(も)ち、その急(きゅう)な斜面(しゃめん)を下(くだ)って東灘区(ひがしなだく)を南(みなみ)に流(なが)れ、大阪湾(おおさかわん)に注(そそ)ぐ川です。
昭和(しょうわ)13年の阪神大水害(はんしんだいすいがい)をきっかけに、本格的(ほんかくてき)な改修(かいしゅう)工事(こうじ)が始(はじ)められました。
表六甲(おもてろっこう)の川としては、水量(すいりょう)が豊(ゆた)かで水質(すいしつ)もいいので、夏(なつ)には川の中に入(はい)って水遊(みずあそ)びをしたりすることもできます。また、両岸(りょうがん)でジョギングや散歩(さんぽ)をしたりする人も多(おお)く、市民(しみん)の憩(いこ)いの場(ば)になっています。

妙法寺川(みょうほうじがわ)

妙法寺川の写真

妙法寺川は須磨区(すまく)の東(ひがし)のあたりに水源(すいげん)があり、須磨区を南(みなみ)に流れて、大阪湾(おおさかわん)に注(そそ)いでいる川です。
川が海(うみ)へ注いでいる所(ところ)には須磨港(すまこう)があります。
妙法寺川という名前(なまえ)は、上流(じょうりゅう)に、古(ふる)くに建(た)てられた妙法寺があることからつけられたといわれています。
川の上流付近(ふきん)では、神戸市営地下鉄西神・山手線(こうべしえいちかてつせいしん・やまてせん)が川の西側(にしがわ)に並(なら)んで走(はし)っています。
また、下流(かりゅう)には妙法寺川公園(こうえん)があり、四季(しき)を通(つう)じて憩(いこ)いの場所(ばしょ)になっています。
特(とく)に、桜(さくら)の咲(さ)く頃(ころ)は見事(みごと)で、多(おお)くの人が通(とお)りぬけを楽(たの)しむ名所(めいしょ)になっています。

淡河川(おうごがわ)

淡河川は北区(きたく)を流(なが)れている川です。帝釈山地(たいしゃくさんち)にあるナダレ尾山(おやま)のあたりに水源(すいげん)があります。
同(おな)じように北区から流れ、衝原湖(つくはらこ)を出(で)てきた志染川(しじみがわ)と三木市(みきし)で合流(ごうりゅう)します。
そのまま三木市を流れ、やがては加古川(かこがわ)になる川です。
川は大きく曲(ま)がりくねって流れています。階段(かいだん)のようになっている両岸(りょうがん)には水田(すいでん)があり、酒(さけ)づくりの時(とき)に使(つか)われる山田錦(やまだにしき)という有名(ゆうめい)な米(こめ)が主(おも)につくられています。

淡河疎水の写真

淡河川疎水(おうごがわそすい)というのは、北区(きたく)と三木市(みきし)を流れている淡河川から、水を引(ひ)いてつくった、新(あたら)しい水路(すいろ)のことです。
加古川(かこがわ)と明石川(あかしがわ)の間(あいだ)にある、加古郡稲美町(かこぐんいなみちょう)へ、おもに農業用(のうぎょうよう)の水を流すためにつくられました。
1888年(明治(めいじ)21年)に、イギリス人(じん)パーマーの監督(かんとく)によって工事(こうじ)が始(はじ)まり、1891年(明治24年)に、苦労(くろう)の末(すえ)に完成(かんせい)しました。
H.S.パーマーイギリス人のパーマーは、世界(せかい)の各地(かくち)で水道(すいどう)工事などをおこないました。
日本(にほん)では、まず横浜(よこはま)で、日本(にほん)で最初(さいしょ)の近代(きんだい)水道の設計(せっけい)をしたほか、大阪(おおさか)、函館(はこだて)の水道工事をしました。
また、北区の淡河川で、日本で初(はじ)めてのサイホン工事を指導(しどう)した人でもあります。
サイホン工事とは、水をいったん高(たか)い所(ところ)に引(ひ)きあげておいて、その後(あと)、谷(たに)へ落(お)とし、そのときの力(ちから)を利用(りよう)して、また水を別(べつ)の高い所に引きあげる工事です。
西区の神出(かんで)町、岩岡(いわおか)町、加古郡稲美町のあたりは、昔(むかし)から水に恵(めぐ)まれませんでした。
そこで、この地域(ちいき)に水を確保(かくほ)するため、溜(た)め池(いけ)を新しくつくって、水田(すいでん)に変(か)えようとしました。
最初(さいしょ)は志染川(山田川)から水を引くことが考えられましたが、地盤(じばん)が弱(よわ)く、工事がむずかしいことが分(わ)かりました。
そこで、淡河川から、とちゅう志染川を渡(わた)って水を引くことになりました。
そのためにつくられたのが、淡河川疎水で、工事は1888年(明治21年)にはじまり、大変(たいへん)な苦労の末、1891年(明治24年)に完成(かんせい)しました。
パーマーは、このとき、農業用水路(のうぎょうようすいろ)としてはじめて、わざわざイギリスに注文(ちゅうもん)した鉄(てつ)のサイホン管(かん)を使って御坂(みさか)サイホンを設計(せっけい)し、工事を監督(かんとく)しました。
パーマーのつくった御坂サイホンは、その後(ご)も何度(なんど)かの修理(しゅうり)をして、いまでも水を運(はこ)び、この地域(ちいき)の人々の役(やく)にたっています。
また、稲美町にある兵庫県淡河川山田(やまだ)川土地改良区事務所(とちかいりょうくじむしょ)には、記念館(きねんかん)があり、サイホン管の一部(いちぶ)などが展示(てんじ)されています。

明石川(あかしがわ)

明石川(西区住吉神社の横)の写真

明石川は、明石市、北区、西区、須磨(すま)区、垂水(たるみ)区という広い地域(ちいき)を流(なが)れている川ですが、そのほとんどは西区にあります。水源(すいげん)は、北区の北五葉(きたごよう)のあたりにあります。その付近(ふきん)は、いまでは鈴蘭台(すずらんだい)の住宅地(じゅうたくち)として開発(かいはつ)されています。
明石川の流れているあたりは古(ふる)い歴史(れきし)のあるところです。
古墳(こふん)などもたくさん残(のこ)っていて、ずっと昔(むかし)から、人々が生活(せいかつ)をしていたことがわかっています。
1945年(昭和20年)の台風(たいふう)で明石川に洪水(こうずい)が起(お)き、たくさんの家(いえ)が壊(こわ)されたり流されたりしました。その後(ご)、1953年(昭和28年)から堤防(ていぼう)をつくったり、川の幅(はば)をひろくするなどの工事(こうじ)がおこなわれてきました。
また、川にすんでいる魚(さかな)のほか、植物(しょくぶつ)や鳥(とり)や虫(むし)などと触(ふ)れあえたり、川で遊(あそ)んだりできるように、いろいろな努力(どりょく)がされています。

明石川の写真

新湊川(しんみなとがわ)

新湊川公園の写真

新湊川は、兵庫区(ひょうごく)、長田区(ながたく)を通(とお)って大阪湾(おおさかわん)に注(そそ)いでいます。六甲山(ろっこうさん)の表側(おもてがわ)の地域(ちいき)では一番(いちばん)大きい川です。
普段(ふだん)は水の少(すく)ない川ですが、いったん雨(あめ)が降(ふ)ると六甲山の水が土や砂(すな)を押(お)し流(なが)してくる危険(きけん)な川になります。
もともと、湊川(みなとがわ)は、湊川公園(こうえん)から新開地(しんかいち)の方(ほう)へ流れていました。
しかし、たびたび洪水(こうずい)がおこり、特(とく)に1896年(明治(めいじ)29年)の水害(すいがい)では多くの被害(ひがい)が発生(はっせい)したため、川の流れを変(か)える工事(こうじ)がおこなわれました。
ツルハシとショベルで約(やく)600メートルの長(なが)さの会下山(えげやま)トンネルを掘(ほ)り、そこに新(あたら)しい川の流れをつくりました。
当時(とうじ)としては画期的(かっきてき)な工事は、4年にもおよびました。1901年(明治34年)に工事はようやく完成(かんせい)し、新湊川が誕生(たんじょう)しました。
しかし、その後(ご)も1938年(昭和(しょうわ)13年)、1967年(昭和42年)に水害はおきました。
また、1995年(平成(へいせい)7年)の阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)では、新湊川も6か所(しょ)、約3キロメートルにわたって岸(きし)が崩(くず)れ、会下山トンネルも変形(へんけい)したりしました。
そこで、会下山トンネルの北側(きたがわ)にさらに新(あたら)しく「新湊川トンネル」をつくる工事がおこなわれ、2000年(平成(へいせい)12年)2月に完成しました。
一方(いっぽう)、新湊川の上流(じょうりゅう)では、洪水を調整(ちょうせい)するための石井(いしい)ダムも平成16年に完成しました。
市民が気軽(きがる)に、より安全(あんぜん)に川に親(したし)めるような整備(せいび)が引(ひ)き続(つづ)き行われています。