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更新日:2019年11月1日

こうべキッズ百科:文化(文化財・名勝)

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北野町山本通(きたのちょうやまもとどおり)

1868年1月1日(慶応(けいおう)3年12月7日)に、兵庫港(ひょうごこう)が外国(がいこく)に対(たい)して開(ひら)かれました。
居留地(きょりゅうち)(今(いま)の神戸市役所(しやくしょ)の西側一帯(にしがわいったい))の整備(せいび)が遅(おく)れたために、神戸(こうべ)にやって来(き)た外国人(がいこくじん)たちは、政府(せいふ)が認(みと)めた雑居地(ざっきょち)に住(す)みはじめました。
これが、今の北野町山本通(きたのちょうやまもとどおり)に多くの洋館(ようかん)が残(のこ)っている理由(りゆう)です。
1887年(明治(めいじ)20年)から、本格的(ほんかくてき)にたくさんの洋館(ようかん)が建(た)てられはじめ、一番(いちばん)多(おお)い時(とき)では200棟以上(とういじょう)ありました。そのうち、今でも残(のこ)っているのは50棟(とう)ほどです。
北野町山本通の特徴(とくちょうは)、本格的な洋風(ようふう)の建物(たてもの)と和風(わふう)の建物が入(い)り混まじっていることです。
また、日本(にほん)ではじめて建てられたインド・イスラム様式(ようしき)の回教寺院(かいきょうじいん)の他(ほか)、キリスト教(きょう)、ユダヤ教、ジャイナ教などさまざまな宗教(しゅうきょう)の教会(きょうかい)や寺院もあります。
北野町には、神戸を代表(だいひょう)する観光地(かんこうち)としてたくさんの人(ひと)がやってきています。
北野町山本通の建物は、神戸市の大切(たいせつ)な財産(ざいさん)です。現在(げんざい)では、そんな洋風の建物や和風の建物のある街並(まちなみ)全体(ぜんたい)を守(まも)り、未来(みらい)まで残していくことに、力(ちから)が注(そそ)がれています。

神戸市教育委員会・異人館のホームページへ(外部リンク)


旧トーマス住宅(きゅうとーますじゅうたく)

萌黄の館(もえぎのやかた)


ラインの館(やかた)(旧ドレウェル邸(きゅうドレウェルてい))

ラインの館(やかた)

旧ドレウェル邸(きゅうドレウェルてい)は、中央区(ちゅうおうく)の北野町(きたのちょう)にあります。
フランス人のJ.R.ドレウェルによって、1915年(大正(たいしょう)4年)に建(た)てられた家(いえ)です。ベランダや鎧戸(よろいど)など、明治時代(めいじじだい)の洋館(ようかん)の様式(ようしき)を、そのまま受(う)けついでいます。
旧ドレウェル邸は別名(べつめい)、「ラインの館」とし(さい)に、市民(しみん)からニックネームを募集(ぼしゅう)して決(き)まった名前(なまえ)です。
元住人(もとじゅうにん)のオーバーライン氏(し)の故国(ここく)ドイツのライン川(がわ)と、建物(たてもの)の外側(そとがわ)のかべの木(き)の板(いた)が、美(うつく)しい直線(ちょくせん)の模様(もよう)(ライン)に見(み)えることから名(な)づけられました。
阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)による被害が、他の洋館とくらべて少(すく)なかったので、神戸市が所有(しょゆう)している洋館の中で、震災後(しんさいご)、最初(さいしょ)に開館(かいかん)することができました。また、2017年(平成(へいせい)29年)2月から2019年(平成31年)4月にかけて、大規模(だいきぼ)な修理工事(しゅうりこうじ)をおこない、リニューアルしました。

南京町(なんきんまち)

兵庫港(ひょうごこう)が開(ひら)かれて、今(いま)の神戸市役所(こうべしやくしょ)の西側一帯(にしがわいったい)に、外国人居留地(がいこくじんきょりゅうち)がつくられましたが、日本(にほん)は、当時(とうじ)中国(ちゅうごく)にあった「清(しん)」という国(くに)と、条約(じょうやく)を結(むす)んでいなかったので、中国の人たちは居留地(きょりゅうち)に住(す)むことができませんでした。
そこで、中国の人たちは、居留地の近(ちか)くに住みはじめました。これが南京町(なんきんまち)のはじまりです。
昭和(しょうわ)の初(はじ)めごろ、南京町には、世界各地(せかいかくち)の珍(めずら)しいものがそろい、全国(ぜんこく)から買物客(かいものきゃく)が押(お)し寄(よ)せるほどにぎわっていました。
戦争(せんそう)によって、南京町は一時(いちじ)、荒(あ)れ果(は)ててしまいましたが、人々(ひとびと)の努力(どりょく)により、今では50件以上(けんいじょう)の店(みせ)が並(なら)んでいます。
横浜(よこはま)、長崎(ながさき)と並んで、日本の三大中華街(さんだいちゅうかがい)の一(ひと)つとして有名(ゆうめい)です。
毎年(まいとし)、旧暦(きゅうれき)の正月(しょうがつ)には、中国(ちゅうごく)の祭(まつり)「春節際(しゅんせつさい)」がおこなわれます。
龍踊(りゅうおどり)や獅子舞(ししまい)などが披露(ひろう)されて、南京町は身動(みうご)きできないほどの人でにぎわいます。
阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)では、南京町でも、建物(たてもの)に被害(ひがい)が出(で)たり、水(みず)や電気(でんき)がとまったりしました。それでも、南京町の店はいち早(はや)く再開(さいかい)し、神戸のまちを元気(げんき)づけました。

南京町1

南京町2

南京町3

南京町長安門

有馬温泉(ありまおんせん)

北区(きたく)の有馬温泉は、和歌山県(わかやまけん)の白浜(しらはま)温泉(おんせん)、愛媛(えひめ)県の道後(どうご)温泉と並(なら)んで、日本(にほん)の古(ふる)い温泉のひとつとして特(とく)に有名(ゆうめい)です。
有馬温泉のお湯(ゆ)には「金泉(きんせん)」と「銀泉(ぎんせん)」の2種類(しゅるい)があります。「金泉」は、湧(わ)き出(だ)した時(とき)のお湯の色(いろ)は透明(とうめい)ですが、空気(くうき)にふれると、鉄(てつ)がさびたような赤茶色(あかちゃいろ)になる、塩(しお)からい温泉です。
「銀泉」は、色のついていないラジウムの温泉です。
ずっと昔(むかし)から、天皇(てんのう)や公家(くげ)やお坊(ぼう)さんなど、多くの人々(ひとびと)がここを訪(おとず)れていたことが、記録(きろく)に残(のこ)っています。
とくに、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、度々(たびたび)有馬温泉にやってきて、茶会(ちゃかい)を開(ひら)いたり、体(からだ)を休(やす)めたりしています。
1596年(慶長(けいちょう)元年)の慶長大地震(だいじしん)では、豊臣秀吉は壊(こわ)れた温泉や寺(てら)を直(なお)し、今(いま)の有馬温泉の発展(はってん)のためにつくしたと言(い)われています。
外湯(そとゆ)(公共浴場こうきょうよくじょう)として、2001年(平成(へいせい)13年)9月には「銀(ぎん)の湯」が開館(かいかん)しました。
2002年(平成14年)には「金(きん)の湯」が建(た)てかえられました。
有馬には、他(ほか)にもさくらやもみじの名所(めいしょ)もあり、新(あたら)しい外湯ができたことで、四季(しき)を通(つう)じてますますたくさんの人がおとずれることが期待(きたい)されています。

有馬温泉のホームページへ(外部リンク)

有馬温泉1

有馬温泉2

有馬温泉3

 

布引の滝(ぬのびきのたき)

布引の滝は、中央区(ちゅうおうく)を流(なが)れる生田川(いくたがわ)の上流(じょうりゅう)にあります。
JR新神戸駅(しんこうべえき)から歩(ある)いていけるほど近(ちか)い距離(きょり)です。
日光華厳の滝(にっこうけごんのたき)、紀州那智の滝(きしゅうなちのたき)とともに、日本(にほん)の三大神滝(さんだいしんたき)のひとつとして有名(ゆうめい)です。
上流(じょうりゅう)から高(たか)さ43メートルの雄滝(おんたき)、夫婦滝(めおとたき)、鼓ヶ滝(つつみがたき)、高さ14メートルの雌滝(めんたき)の、4つの滝(たき)をあわせて布引の滝とよんでいます。
滝から泡(あわ)を立(た)て落(お)ちてきた水が、まるで白(しろ)い布(ぬの)をかけたようなので、布引(ぬのびき)という名前(なまえ)が生(う)まれたといわれています。
平安時代(へいあんじだい)から、歌(うた)や物語(ものがたり)など多(おお)くの文学作品(ぶんがくさくひん)に登場(とうじょう)し、不思議(ふしぎ)な言(い)伝(つた)えも残(のこ)されています。
滝のあたりはハイキングコースにもなっています。
ここから布引ハーブ園(えん)へ行くこともできるので、四季(しき)を通(つう)じてたくさんの人が訪(おとず)れています。
布引の滝からHAT神戸(はっとこうべ)までの生田川沿(ぞ)いには、布引の歌碑(かひ)36基(き)が建(た)っています。
布引の歌碑は平安時代から江戸時代(えどじだい)に、布引の滝について詠(よ)まれた名歌(めいか)を集(あつ)めて、石(いし)に刻(きざ)んでいるものです。
明治(めいじ)のはじめ頃(ごろ)、「花園社(はなぞのしゃ)」という市民団体(しみんだんたい)によって建てられました。
その後、災害(さいがい)などで無(な)くなっていましたが、2007年(平成(へいせい)19年)の春(はる)に、神戸市が全(すべ)てを復旧(ふっきゅう)しました。

雄滝

石碑

旧ハンター住宅(きゅうハンターじゅうたく)

旧ハンター住宅は、昔(むかし)、イギリス人の貿易商(ぼうえきしょう)E・H・ハンターが住(す)んでいた家(いえ)です。
1907年(明治(めいじ)40年)に建(た)てられたという記録(きろく)が残(のこ)っています。
もともとは中央区(ちゅうおうく)の北野町(きたのちょう)にありましたが、1963年(昭和(しょうわ)38年)に今の灘(なだ)区にある王子動物園(おうじどうぶつえん)の中に移(うつ)されました。
ハンターは、兵庫開港(ひょうごかいこう)の時(とき)に神戸(こうべ)にやって来(き)て、1917年(大正(たいしょう)6年)に亡(な)くなるまで神戸に住んでいました。
貿易(ぼうえき)だけでなく、レンガや煙草(たばこ)などを扱(あつか)う、多(おお)くの会社(かいしゃ)をつくって活躍(かつやく)しました。

旧ハンター住宅2

旧ハンター住宅3

相楽園(そうらくえん)

相楽園は明治末期(めいじまっき)に完成(かんせい)した広(ひろ)い庭園(ていえん)です。元(もと)神戸市長(こうべしちょう)の小寺謙吉(こでらけんきち)の父(ちち)、小寺泰次郎(たいじろう)がつくりました。
相楽園は、池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)日本庭園(にほんていえん)という作(つく)りで、大きな池(いけ)をぐるりと歩(ある)きながら変化(へんか)する景色(けしき)を楽(たの)しむことができます。
春(はる)のツツジや、秋(あき)の菊花展(きっかてん)が有名(ゆうめい)です。
また、園内(えんない)には3つの古(ふる)い建物(たてもの)があります。
小寺氏(こでらし)の馬屋(うまや)だった旧小寺家厩舎(きゅうしゃ)。北野町(きたのちょう)から移築(いちく)した洋館(ようかん)の旧ハッサム住宅(きゅうハッサムじゅうたく)。姫路藩主(ひめじはんしゅ)が使用(しよう)していた船屋形(ふなやかた)。
どれも重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定(してい)されています。
相楽園は一年(いちねん)を通(つう)じて、たくさんの人が訪(おとず)れます。
庭(にわ)の散策(さんさく)だけではなく絵(え)を描(か)いたり、写真(しゃしん)をとったり、本(ほん)を読(よ)んだりと、ゆったりと自由(じゆう)な時間(じかん)を過(す)ごせるのも、相楽園の魅力(みりょく)です。
※「のびのびパスポート」が利用(りよう)できます。
【連絡先】
〒650-0004 中央区中山手通5-3-1
TEL 078-351-5155
FAX 078-361-7307

倚松庵(いしょうあん)

倚松庵は、有名(ゆうめい)な小説家(しょうせつか)の谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)が、1936年(昭和(しょうわ)11年)から1943年(昭和18年)まで住(す)んでいた家(いえ)です。
東灘区(ひがしなだく)の住吉川(すみよしがわ)のほとりにあります。
ここでは、谷崎潤一郎の作品(さくひん)や、谷崎潤一郎が小説(しょうせつ)を書(か)いていた部屋(へや)を見(み)ることができます。
この家(いえ)は、小説「細雪(ささめゆき)」の舞台(ぶたい)にもなりました。
この小説では、谷崎潤一郎が体験(たいけん)した、昭和13年の阪神大水害(はんしんだいすいがい)についても、詳(くわ)しく書(か)れています。
倚松庵は、1990年(平成(へいせい)2年)7月に、その当時(とうじ)の場所(ばしょ)から、少(すこ)し南側(みなみがわ)に移(うつ)されました。
【連絡先】
〒658-0052 東灘区住吉東町1-6-50
TEL 078-842-0730

2階 南側縁側

1階 食堂

農村歌舞伎舞台(のうそんかぶきぶたい)

農村歌舞伎舞台とは、昔(むかい)の人(ひと)が、お芝居(しばい)や、文楽(ぶんらく)という伝統的(でんとうてき)な人形劇(にんぎょうげき)をした建物(たてもの)のことです。
江戸時代(えどじだい)の終(お)わりごろに、たくさん建(た)てられました。
兵庫県でも約(やく)170棟(とう)、神戸市内(こうべしない)にも16棟の舞台(ぶたい)が残(のこ)っています。

下谷上農村歌舞伎舞台

下谷上農村歌舞伎舞台は、北区(きたく)の山田町(やまだちょう)にある天津彦根神社(あまつひこねじんじゃ)の中(なか)に、1840年(天保(てんぽう)11年)に建(た)てられました。もともと神社(じんじゃ)の行事(ぎょうじ)に使(つか)われていた建物(たてもの)が、芝居(しばい)などの舞台(ぶたい)として使われるようになったもので、舞台には、色々(いろいろ)な仕掛(しか)けやからくりが施(ほどこ)されています。特(とく)に「まわり舞台」といって、舞台の真中(まんなか)のまるい部分(ぶぶん)が回転(かいてん)する仕掛けになっている仕組(しくみ)は、全国的(ぜんこくてき)にも珍(めずら)しく、貴重(きちょう)な財産(ざいさん)です。
1977年(昭和(しょうわ)52年)に火事(かじ)で焼(や)けましたが、焼け残(のこ)った部材(ぶざい)を使って、1979年(昭和54年)に、2年8か月ぶりに建て直(なお)されました。
下谷上(しもたにがみ)の舞台のいくつかのからくりを見(み)ることによって、この当時(とうじ)の農民(のうみん)が、お芝居(しばい)を見(み)たり、演(えん)じたりすることに、どれだけ熱心(ねっしん)だったかを想像(そうぞう)することができます。

北僧尾農村歌舞伎舞台(きたそおのうそんかぶきぶたい)

北僧尾農村歌舞伎舞台は、北区の淡河町(おうごちょう)の厳島神社(いつくしまじんじゃ)の境内(けいだい)にあります。
現在(げんざい)、残(のこ)っている農村歌舞伎舞台(のうそんかぶきぶたい)としては日本(にほん)で一番(いちばん)古(ふる)いもので、記録(きろく)では、1777年(安永(あんえい)6年)に建(た)てられたとされています。
舞台(ぶたい)は、仕掛(しか)けや飾(かざ)りが少(すく)ない、簡単(かんたん)なつくりですが、「バッタリ」という舞台が前面(ぜんめん)に広(ひろ)がる工夫(くふう)がなされています。

上谷上農村歌舞伎舞台(かみたにがみのうそんかぶきぶたい)

上谷上農村歌舞伎舞台は、北区(きたく)の山田町(やまだちょう)にある天満神社(てんまんじんじゃ)の中(なか)にあります。1863年(文久(ぶんきゅう)3年)に建(た)てられたと考(かんが)えられています。
今(いま)でも、お芝居(しばい)をするために使(つか)われています。
この舞台(ぶたい)は、床(ゆか)の高(たか)さが約(やく)1メートルあり、床(ゆか)の下(した)に、役者(やくしゃ)が休憩(きゅうけい)をしたり準備(じゅんび)をしたりする「奈落(ならく)」という楽屋(がくや)があります。

上谷上農村歌舞伎舞台 石碑

上谷上農村歌舞伎舞台1

上谷上農村歌舞伎舞台2

 

一遍上人廟所(いっぺんしょうにんびょうしょ)

鎌倉時代(かまくらじだい)の中(なか)ごろ、時宗(じしゅう)を開(ひら)いた一遍上人(いっぺんしょうにん)は、すべての人は念仏(ねんぶつ)をとなえることですくわれる、と説(と)きながら、寺(てら)も建(た)てず、仏像(ぶつぞう)も作(つく)らずに、北(きた)は奥州(おうしゅう)(今(いま)の岩手県(いわてけん))から南(みなみ)は大隅(おおすみ)(今の鹿児島県(かごしまけん))まで旅(たび)を続(つづ)けながら、教(おし)えを広(ひろ)めて歩(ある)きました。
1289年(正応(しょうおう)2年)、兵庫区(ひょうごく)にあった観音堂(かんのんどう)で、51才(さい)で亡(な)くなりました。
その時(とき)、土地(とち)の人々(ひとびと)によって、観音堂の前(まえ)に作られた墓(はか)が「一遍上人廟所」です。
現在(げんざい)の石(いし)でできた五輪塔(ごりんとう)は、その時のものではなく、後(のち)の南北朝時代(なんぼくちょうじだい)に修理(しゅうり)し、築(きず)かれたものと考(かんが)えられています。
一遍(いっぺん)が亡くなった観音堂があった場所(ばしょ)に、一遍の弟子(でし)が、真光寺(しんこうじ)を建(た)てました。

真光寺内

一遍上人廟所


 

箱木家住宅(はこぎけじゅうたく)(箱木千年家(はこぎせんねんや))

北区(きたく)にある箱木家住宅(はこぎけじゅうたく)は、平安初期(へいあんしょき)の806年(大同(だいどう)元年)に建(た)てられたという記録(きろく)があります。
江戸時代(えどじだい)の初(はじ)め頃(ごろ)には、すでに古(ふる)くから建っている家(いえ)として千年家(せんねんや)と呼(よ)ばれていました。呑吐(どんど)ダムをつくるために1977年(昭和(しょうわ)52年)から2年がかりで、もともとあった場所(ばしょ)から、今(いま)の場所へ移(うつ)されました。
この工事(こうじ)の時(とき)に、箱木家住宅が今(いま)残(のこ)る日本(にほん)で一番(いちばん)古(ふる)い住宅(じゅうたく)だということが確(たし)かめられました。
また、14世紀(せいき)に建てられた「母屋(おもや)」と、その後(ご)に建てられた「離(はなれ)」が、江戸時代にひとつの屋根(やね)の下(した)に合(あ)わされていたということもはっきりしました。
昭和の中(なか)ごろまでは、神戸市内(こうべしない)に、他(ほか)にも千年家とよばれる古い家がいくつかありましたが、今ではこの箱木家住宅だけになってしまいました。
【連絡先】
〒651-1264 北区山田町衝原
TEL 078-581-1740

箱木家住宅(箱木千年家)

 

孫文記念館(そんぶんきねんかん)

垂水区(たるみく)にある孫文記念館は、中国革命(ちゅうごくかくめい)の父(ちち)といわれている孫文(そんぶん)をたたえるための博物館(はくぶつかん)です。
孫文についての博物館は、日本(にほん)ではここ1か所(しょ)しかありません。
この建物(たてもの)は、もとは神戸(こうべ)で活躍(かつやく)していた中国人(ちゅうごくじん)の実業家(じつぎょうか)、呉錦堂(ごきんどう)の別荘(べっそう)の一部(いちぶ)として建(た)てられた「移情閣(いじょうかく)」でした。
移情閣は、神戸の華僑(かきょう)(外国(がいこく)に住(す)んでいる中国人)や地元(じもと)の有力者(ゆうりょくしゃ)などの交流(こうりゅう)の舞台(ぶたい)になっていました。孫文が日本に来(き)たときにも、ここで歓迎会(かんげいかい)がおこなわれました。
外側(そとがわ)から見(み)ると、六角形(ろっかっけい)に見(み)えることから、長(なが)い間(あいだ)「六角堂(ろっかくどう)」ともよばれ、親(した)しまれています。
実際(じっさい)の移情閣は、三階建(さんかいだ)て、高(たか)さ24メートルの八角形(はちかっけい)の建物です。
その後(ご)、1984年(昭和(しょうわ)59年)の孫文の誕生日(たんじょうび)に、孫中山(そんちゅうざん)記念館(きねんかん)として一般(いっぱん)に公開(こうかい)されました。孫中山とは、孫文の中国での名前(なまえ)です。
2005年(平成(へいせい)17年)に孫文記念館に名前が変(か)わりました。
明石海峡大橋(あかしかいきょうおおはし)の建設(けんせつ)などにともなう周辺(しゅうへん)の整備(せいび)で、いったん舞子公園(まいここうえん)内(ない)へ移(うつ)されました。2000年(平成12年)4月に、もとの場所(ばしょ)から南西(なんせい)へ約(やく)200メートルのところへ戻(もど)されています。
2001年(平成13年)には、建物としても貴重(きちょう)な価値(かち)があるということで、重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定(してい)されました。
記念館では、孫文と神戸のかかわりを中心(ちゅうしん)に、移情閣の移り変わりなどに関(かん)する展示(てんじ)もおこなわれています。
歴史学習(れきしがくしゅう)を目的(もくてき)にした見学(けんがく)も増(ふ)えてきました。
※「ひょうごっ子ココロンカード」が利用(りよう)できます。

【連絡先】
〒655-0047 垂水区東舞子2051
TEL 078-783-7172
FAX 078-785-3440

孫文記念館

 

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