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淡河疏水(おうごそすい)

最終更新日:2026年3月30日

ページID:247

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淡河疏水(おうごそすい)は、明治時代に現在の神戸市西部や三木市、稲美町において実施された大規模な灌漑事業です。水に乏しかった印南野台地へ水を導き、地域の悲願であった稲作の実現に大きく寄与しました。

淡河疏水
春の御坂サイフォン橋

 概要

竣工 1891年(明治24年)
所在地 北区淡河町木津~加古郡稲美町
延長 26.3km
用途 農業用水など
登録 近代化産業遺産、疏水百選、土木学会奨励土木遺産(御坂サイフォン橋として)

 特徴

淡河疏水(正しくは淡河川疏水)は、北区淡河町木津から加古郡稲美町に至る疏水*です。明治期に整備された山田川疏水とあわせて「淡山疏水(たんざんそすい)」とも呼ばれています。淡河川から取水された水は、右岸の山の斜面の地下を通る水路を流れ、三木市志染町で再び淡河川と御坂サイフォン橋で交差します。その後、水は対岸の山をトンネルで貫き、印南野台地を潤しています。

御坂の周辺は山あいの谷底にあり、淡河川を渡る水路をそのまま結ぶには、橋を非常に高くする必要がありました。この高低差を克服するため、「サイフォン工」という方法が採用されました。これは、密閉された管路内が水で満たされていれば、水は一度低所へと下った後でも水圧により再び上昇する原理を応用したものです。この技術は古くから「伏せ越し」として知られ、金沢城の堀や兼六園への導水にも用いられました。しかし、淡河疏水のサイフォンはそれらと比較しても大規模で、従来の木製管・石製管に代えて、当時としては画期的な太さの異なる錬鉄製管が採用されました。

また、御坂サイフォン橋は石造アーチ橋として築造されており、その優雅なアーチが淡河川の水面に映る姿から、地元では「めがね橋」の名でも親しまれています。

疏水...川の水を農業や生活に利用するために造られた水路のこと

 歴史

印南野台地は、明石川・美嚢川・加古川に挟まれた地域で、隆起した平地が各河川や播磨灘の侵食により削られたことで、周囲より標高の高い微高地となっています。このため水利に恵まれず、古くからため池が多く築かれ、綿花などの畑作を中心とした農業が営まれてきました。しかし、安定した農業経営を実現するには、より豊富で安定した水資源が必要でした。加えて、1867年(慶応3年)の神戸港開港により、安価で良質な外国綿が流入しました。これにより、印南野の綿花産業は大きな打撃を受け、干ばつなどの自然災害や当時の重税も重なり、水利改善を求める機運が高まります。

明治期に入り、幾度もの計画変更と出願を経て、国営播州葡萄園の誘致を契機に疏水計画は大きく進展します。計画当初は山田川からの取水が検討されていましたが、内務技師・田辺義三郎の調査により地盤条件が疏水には不適と判断されました。そこで、北側の淡河川から取水することとなり、田辺が招へいしたヘンリー・S・パーマー技師とともに計画が策定されます。1888年(明治21年)に着工された工事は、技術面・資金面の困難を伴いながらも、約3年の工期を経て1891年(明治24年)に完成しました。また、この事業に触発される形で山田川疏水の建設が進められ、1919年(大正8年)に完成しています。

なお、当時の安積疏水(福島県)や那須疏水(栃木県)が国家事業として実施されたのに対し、淡河川疏水および山田川疏水は地元農民主体で推進された点に大きな特徴があります。このため地元負担も大きく、特に山田川疏水は銀行借入を含め、ほぼすべての資金が民間で賄われたのです。

さらに、両疏水を補完するものとして、1970年から1996年にかけて篠山川を水源とする東播用水が整備されました。

現在も管路更新や水路補修などを経ながら印南野台地への用水供給が続けられており、東播用水は西神ニュータウンへの工業用水などにも活用されています。

参考文献

  • (一社)兵庫県建設業協会,今も昔もこれからも 兵庫を築く―あなたの近くの土木・建築ものづくり―,2013
  • 東播用水土地改良区,兵庫県淡河川・山田川土地改良区合併解散記念 淡山疏水128年史 疏水開通~未来創造,2020

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