松林が続く風光明媚なところです。海岸線から、JR線、国道2号線が並行して走っています。このあたりの雰囲気は、川西 英さんの頃と変わらないように思います。現在、松林越しに見える海には、須磨海づり公園が整備され、多くのつりファンが訪れます。
- 須磨区一ノ谷町5(撮影:2009/6/1)
須磨海づり公園は、1976(昭和51)年に日本初の公立の釣り公園として開園しました。沖合400mにある釣台は、施設全体が巨大な魚礁となっているため、さまざまな種類の魚が集まってくるそうです。
松林が続く風光明媚なところです。海岸線から、JR線、国道2号線が並行して走っています。このあたりの雰囲気は、川西 英さんの頃と変わらないように思います。現在、松林越しに見える海には、須磨海づり公園が整備され、多くのつりファンが訪れます。
ポイント探しで最も苦労したのがここでした。結論から言えば、川西画を忠実に再現できるポイントは存在していませんでした。「92.須磨浦公園」には、新旧2つの作品が存在していたのです。その違いはロープウエイです。最初の画を1952(昭和27)年に描き、1961(昭和36)年に一部描き直した時、その間の1957(昭和32)年に開通したロープウエイを、公園の新名所として付け加えたのでしょう。実はあとで追記されたものだと分かってから、ポイント探しも方針変更。ロープウエイを抜きにして再スタートしました。
"新しもの"好きの川西 英さん、1959(昭和34)年完成のリフトも百景に加えましたか。リフト乗り場の女性従業員さんが、「今度はぜひ、サイクルモノレールあたりからの景色を見てください。ここで18年働いていますが、ここからの眺めが神戸でいちばんの景色です」とおっしゃっていたのが、とても印象に残っています。
川西画は、淡路島、平磯灯標の位置関係から推測すると、旧ジェームス邸あたりからの眺めと推測されます。現在、それを証明できるような建物が存在していないのが残念です。
川西画は、現在の山陽電車・滝の茶屋駅付近からの眺めと推測されます。当時は、高い建物もなく、須磨の鉢伏山、旗振山がよく見えたことでしょう。現在は、駅周辺に建つマンションによって、旧ジェームス邸(現・三洋電機の望淡閣)を駅付近から望むことはできません。
1957(昭和32)年、海神社馬場先浜に朱塗りの浜大鳥居が建立されました。川西画の頃もまだ、鳥居のすぐ南側が海岸線でした。現在は、その海岸線も埋め立てられ、漁港や漁業協同組合などが整備されています。鳥居からは、かすかに淡路島を見ることができます。川西画を見ていて、ひとつの疑問点が湧いてきました。川西画には灯標が描かれています。この灯標が「平磯灯標」であるとすると、鳥居、淡路島、灯標の位置関係が、実際と合わなくなります。実際には、神社から淡路島方向を眺めても、平磯灯標を見ることはできないのです。灯標は、海神社よりも東、福田川河口にあり、淡路島とは反対の方向になります。川西 英さんの時代、平磯灯標以外に、灯標があったのでしょうか?
撮影直前になって、移情閣が移築されていることを知り、慌てました。実際にスケッチされた場所を撮影するというスタンスで、この撮影を始めたので、移築前の場所を特定しないといけません。ところが、川西画の時代とくらべると、明石海峡大橋とその取り付け道路の建設、国道2号の拡張、海岸線の埋め立てによって、別世界の様相をなしています。そこで思いついたのが、航空(衛星)写真を利用することでした。移築前の写真と、現在の写真を重ね合わせることで、撮影ポイントを特定するのです。この手法は、商船大学の調査時にも使いました。これにより、撮影ポイントを正確に特定できるようになりました。
百景の中で、千苅貯水池に続いて、2番目に遠い撮影ポイントです。市街地から車を走らせ、40分ほどで着くことができました。山門横を通り過ぎ、しばらく歩くと、川西画の景色に出会います。「おっ」と思わず声がでました。当時とほぼ同じ面影が残っているのではないでしょうか。
神戸は海と山に囲まれた街です。市街地から眺める背山は、いつも神戸市民をホッとさせてくれます。時代はどんなに変わろうとも、街並みがどんなに変化しようとも、背山はそこにあります。実際のスケッチ場所は、JRの高架、錨山、市章山の位置から考えると、西元町にあった三越百貨店あたりから見た眺めではないかと思います。
川西画に描かれている船を手がかりに調査を始めました。最初は、この画が描かれた当時、話題性からいっても、戦後初のブラジル移民船「さんとす丸」ではないかと考えました。「39.新造船レセプション」で新造された船が、この「100.出帆」で神戸の港から旅立つ姿を想像したのです。しかし船影を比較すると「さんとす丸」ではないようです。そこで、国内航路の船にまで調査範囲を広げました。手元に1994(平成6)年発行の「関西汽船の船半世紀」(関西汽船海上共済会)という記念誌があり、この中にヒントとなる写真がありました。川西画の船影に最も近いのが、阪神別府航路の大型純客船で、1948(昭和23)年竣工の「るり丸」(総トン数1,877トン、定員919名)です。「るり丸」と、関西汽船の前身である大阪商船の「に志き丸」「こがね丸」の3隻は、瀬戸内海の女王といわれるほど美しい船だったそうです。川西 英さんは、この3隻のうちいずれかをスケッチした可能性があります。
川西 英さんは、百景のラストに「出帆」という粋な画題を付けています。私もそれにふさわしい風景を撮影して、百景の旅を終えたいと思いました。2008年に始めた百景の撮影は、かけ足でしたが丸2年かかりました。「1.みなと」で百景と出会い、「100.出帆」で百景ともお別れです。この旅を通して、百景の写真、百景での出会いすべてが、私の宝物になりました。これからも、この美しい街・神戸のどこかで、宝物とするべき私自身の百景を探し続けていきたいと思います。<百景の旅人 喜多孝行>