神戸百景探訪 作品No.11〜20

旅人のプロフィール

11.六甲山牧場(制作または加筆:1961.1〜1961.3)
六甲山牧場

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六甲山牧場は、平日と休日、それぞれに違った顔を見せてくれます。どこまでものどかで、動物たちものんびりしている平日。一方、子どもたちに追いかけられるヒツジ、えさをねだって動き回るヤギ、といったにぎやかな休日。ちなみに、開港当時、はげ山同然だった六甲山系に植樹が始まったのは、1902(明治35年)のことだそうです。

撮影場所
灘区六甲山町中一里山1-1(撮影:2009/5/27)
この牧場のシンボルとなっているサイロは、1958(昭和33)年に完成した当時からのもので、現存しています。ポニー舎も外壁の補修などが施されていますが、当時の姿のまま残っています。川西画で乳牛のいるところは、現在、ポニーパドックになっています。事務所の方に頼むと、快くパドック内での撮影を許可してくださいました。どうやら川西画は、奥摩耶ドライブウェイのところから描いているようです。現在は、成長した木が撮影の障害になり、同じ構図での撮影は困難です。

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12.奥摩耶(制作または加筆:1961.1〜1961.3)
奥摩耶

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当時、ここには遊園地があり、マウントコースターと呼ばれるジェットコースターなどの遊具も充実していました。川西画には、子供たちが遊び回る姿、親子の姿が描かれ、当時のイメージを伺い知ることができます。川西画の奥に、屋根付きの施設が描かれていますが、「展望台 虹のかけはし」と呼ばれていた施設だと思います。展望台には、七色の屋根がかかっていたのですね。

撮影場所
灘区大石(掬星台)(撮影:2011/10/15)
遊園地は現存せず。現在、この場所は掬星台(きくせいだい)と呼ばれ、夜景スポットとして人気があります。まやケーブルとまやロープウエーを乗り継いだ山頂「星の駅」から撮影。摩耶山のイメージは?と聞かれれば、私は、ここから眺める1,000万ドルの夜景と答えます。山頂からせり出した掬星台の展望台に立てば、眼下に星くずを散りばめたような世界が広がり、日本三大夜景と讃えられるすばらしさです。

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13.摩耶山天上寺(制作または加筆:1961.1〜1961.3)
摩耶山天上寺

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川西画には、毎月講と刻まれた門柱、立派な枝垂れ桜、多宝塔(二重の塔)、その奥に本堂が描かれています。撮影ポイントまでの行程がいちばん大変だったのは、ここ天上寺跡でした。まやケーブルの「虹の駅」で下車し、まやロープウエーには乗らずに登山道を歩きました。10分ほど登ると「摩耶花壇」と書かれた施設の廃墟があります。お茶屋さんの跡でしょうか。そのあたりから急勾配が続き、20分くらいかけて天上寺の山門(仁王門)にたどり着きました。ここが天上寺の入り口。その後、200段近い階段と参道を登って、伽藍跡を見つけた時は、カメラを構える手が震えていたのを覚えています。後日、摩耶ロープウエー山上駅の「星の駅」で下車、観音道を下山すれば、約10分で着くことが判明。後悔したのは言うまでもありません。

撮影場所
灘区原田(摩耶山史跡公園)(撮影:2010/4/30)
現存しません。旧仏母摩耶山忉利(とうり)天上寺跡。1976(昭和51)年に多宝塔をはじめ、伽藍を全焼しています。現在は「摩耶山史跡公園」と呼ばれ、礎石などが散逸している状態です。川西画にある門柱が、基礎の部分だけ残っています。

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14.六甲ケーブルカー(制作:1952.1.1〜1953.2.20)
六甲ケーブルカー

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六甲ケーブルを運営する六甲摩耶鉄道の方にたずねたところ、川西画は「旧橋梁のところを描いたものでしょう」とのお話しでした。残念なことに、現在は立ち入り禁止になっているそうです。ちなみに、ケーブルカーが動く仕組みを知って、ものすごくシンプルで驚きました。これを考えた人はすごいと思います。

撮影場所
灘区六甲山町(撮影:2009/6/27)
1932(昭和7)年開業。六甲ケーブル下駅から六甲山上駅までの約1.7km、高低差493.3mを約10分間で結びます。3代目となる現在の車両は、「クラシックタイプ」と「レトロタイプ」の2編成です。

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15.六甲山の夜(制作:1952.1.1〜1953.2.20)
六甲山の夜

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表六甲ドライブウェイの途中にある『鉢巻展望台』です。ここからの眺めが、川西画とかなりの部分でマッチします。宝石をちりばめたような夜景が織りなす湾の曲線美。その手前に続く背山の稜線、右下の深い谷は新六甲大橋から鶴甲あたりにかけてになります。ところで、満月を入れての撮影は、時季が限定され、その上、天気にも左右されて、とても難しいものです。2009年から何度か挑戦してきましたが、ようやくカメラにおさめることができました。それも中秋の日と満月が重なるという珍しい名月の夜でした。

撮影場所
灘区六甲山町(撮影:2013/9/18)
鉢巻展望台は表六甲ドライブウェイに併設され、六甲山中腹に位置しています。天覧台や摩耶山掬星台に比べ標高が低いため、天候に左右されにくく、1000万ドルの大パノラマが期待できます。

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16.六甲山ゴルフ場(制作:1952.1.1〜1953.2.20)
六甲山ゴルフ場

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ゴルフクラブを持たずに、ゴルフ場を訪れたのは初めてです。川西画では、最終18番ホールのグリーンまわりにアジサイが植栽されていますが、現在はツツジなどに変更されています。せっかくアジサイの季節を狙って撮影に行ったのに、少々的外れでした。当時とはコースレイアウトも変更されています。唯一クラブハウスが、当時の面影を残し、そのままの状態で使用されているのが不思議なくらいです。

撮影場所
灘区六甲山町一ケ谷1-3(撮影:2009/6/27)
正式名称「神戸ゴルフ倶楽部」は、1903(明治36)年、英国人貿易商アーサー・H・グルームが創設した日本最古のゴルフ場です。1932(昭和7)年竣工のクラブハウスは、建築家ヴォーリズの設計で、一見の価値があります。撮影当日、支配人のご好意で案内していただき、来場者のプレーの合間に18番ホールから撮影できたのはラッキーでした。

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17.表六甲ドライブウェイ(制作または加筆:1961.1〜1961.3)
表六甲ドライブウェイ

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ひとりでは撮影不可能なポイントです。ここは、もともと自動車専用道路として整備されたため、歩道がなく、歩いて登ることができません。今回は、神戸市広報課さんのご協力で撮影することができました。川西画は、2つあるヘアピンコーナーの上のカーブからスケッチされています。そこからの撮影も試みましたが、大きく茂った木々に阻まれ、その位置からの撮影は断念し、一段下のヘアピンカーブ、そこからの撮影としました。当時の六甲山は、樹木の状況も、交通量も違ったでしょう。目の前を行く車をやり過ごし、安全を確認しての撮影は、とてもスリルがあり、気をつかいました。立場上、広報課の方は「車の中から撮影してはどうでしょうか?」と安全策を講じていらっしゃいましたが、私が「行って撮ってきます」と、半ば強引に許可していただきました。100景の撮影も、ほぼ最終局面を迎え、なんとしても撮りたいとの気持ちがそうさせたのでしょうか。趣味とは言え、神戸百景の撮影に、まる2年も費やしてきたものですから。

撮影場所
灘区六甲山町(撮影:2010/8/30)
現存。ドライブウェイが有料道路として開通したのは、1956(昭和31)年でした。崩れやすい花崗岩の山に道路を作るのは、大変な難工事だったそうです。道路を走れば、その意味もよくわかります。同行してくださった広報課の方は、撮影のための2往復と、つづら折りのカーブに車酔いされていました。

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18.鴨子ヶ原団地(制作または加筆:1961.1〜1961.3)
鴨子ヶ原団地

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現存せず。神戸にある団地の原点ともいわれたところです。すでに老朽化し、2002(平成14)年から2004(平成16)年にかけ、UR都市機構「グリーンヒルズ御影」として12棟ほど建て替えられています

撮影場所
東灘区鴨子ヶ原2(撮影:2009/5/3)
川西画の場所は、正面奥の階段、松の街路樹、建物の配置からして、ここでしょう。現在、団地の名前から「鴨子ヶ原」の文字が消えてしまっているのが残念です。

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19.白鶴美術館(制作:1952.1.1〜1953.2.20)
白鶴美術館

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すでに明治時代の後期から、酒造家の地域社会への貢献は、すばらしいものがありました。灘中学・高校、甲陽学院、報徳学園の設立にはじまり、御影公会堂の建設にも多額の寄付をされるなど、教育・文化面でも多大な支援を行われたようです。機会があれば、神戸と酒造家について調べてみたいと思います。

撮影場所
東灘区住吉山手6丁目1-1(撮影:2009/5/3)
白鶴美術館の創立者である白鶴酒造七代目・嘉納治兵衛は、明治30年ごろから本格的に美術品の収集を始めたそうです。六甲山のふもと、住吉川西岸で開館したのは、1934(昭和9)年。「個人が私蔵するのでなく、広く社会に公開したい」との願いから、古美術品約500点で出発し、現在は、国宝や重要文化財を含む約1,400点の作品を所蔵しています。

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20.灘酒倉(制作:1952.1.1〜1953.2.20)
灘酒倉

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川西画をよく見ると、何やら酒蔵に文字が描かれています。これをヒントに取材を重ねましたが、場所を特定することができませんでした。解読不能だった文字ですが、写真家・井川宏之さんのアドバイスから、急展開をみせました。酒蔵の文字は、右から「都菊」と書かれているのではないかということでした。都菊とは、魚崎郷にあった「肥塚酒造」のお酒です。これを踏まえて、再度現地へ。肥塚酒造だった場所は、現在、剣菱酒造の中蔵になっています。木造の蔵は、ほとんどが震災でつぶれたようですが、角に建つ蔵は、当時の雰囲気そのままでした。特に、基礎部分にあるレンガ積みが特徴です。

撮影場所
東灘区魚崎南町4(撮影:2009/7/7)
現存せず。肥塚酒造は、江戸末期に堺で創業し、灘へ渡ってきた酒造家です。1978(昭和53)年、剣菱酒造に吸収されたそうです。今回の調査を確かなものとしたいので、ご近所の方に話を聞いてみました。蔵の前にお住まいの男性は、1950(昭和25)年生まれだそうで、子供の頃、蔵に書かれた、右から読む「ミヤコキク」を、ふざけてクキコヤミと言っていたそうです。また、角に建つ蔵は、昭和56年に建て替えられていたため、震災の難を逃れたそうです。

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