最終更新日:2024年9月19日
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兵庫運河は明治29(1896)年から3年間かけて、海難事故が多い和田岬を迂回せずに須磨・駒ヶ林方面と兵庫港を結ぶ水路として掘削された。高松町・材木町・南逆瀬川町を通って、明治8(1875)年に完成した新川運河に達する本線と、東尻池町から北に延びる支線、全長1400間余(約2500m)が開通。現在でも日本最大規模の運河である。以前は貯木場として利用されていましたが、遊歩道の整備により親水空間として生まれ変わり、市民の憩いの場として利用されています。
高松町の高松橋詰めには、兵庫運河建設の功労者・八尾善四郎の銅像がある。日露戦争の際に、兵庫運河が物資堆積などに果たした役割を評価されたため、第二次大戦時もこの銅像は供出をまぬがれた。現在も運河を見渡すように立っている。
中之島から切戸町にかけては、天正9(1581)年に池田恒興が築いた兵庫城の天守閣があった場所と伝えられている。明治元(1868)年1月には兵庫鎮台が設けられ、同年5月には兵庫県庁となって初代県令に伊藤博文が着任。その後、新川運河の開削によって当時の建物は失われたが、「兵庫城跡」「最初の兵庫県庁の地」と併記した碑と説明板がキャナルプロムナードに立っている。
明治29(1896)年8月の豪雨により、湊川堤防が100mにわたって決壊。福原町から仲町にかけて濁流が押し寄せ、神戸駅周辺では1.5mまで水かさが増した。この洪水をきっかけに湊川の付替工事が本格化、会下山の下を抜けて苅藻川に合流する新湊川が明治34(1901)年に完成、旧湊川の跡は新開地になった。
元治元(1864)年に沿岸防衛のため、大阪湾岸の9カ所に砲台が設置された。和田岬の砲台は勝海舟とその弟子の設計によって築かれたもので、中央に「石ほ塔」という丸い砲台を設け、直径12.12m、高さ10.60mもある。砲門は屋上12カ所、2階に11カ所設けられていたものの、大砲は据えることなく終わった。築造後、大正末期から昭和初期に大修理が施され、阪神・淡路大震災にも耐えましたが、内部の木造部分の傷みが著しいため、内部の全解体修理や外郭部の石造部分の修理を行う平成の大修理を平成21(2009)年から行い、平成26(2014)年3月末に修理工事が完工しました。
明治の初期までは、兵庫港には適当な船の避難所がなかったため、遭難事故が多かった。また和田岬の突端を回って入港するのも不便だったので、神田兵右衛門は兵庫運河の建設を計画した。工事は明治7(1874)年2月に始まったが、難工事のため思うように進まず、明治8(1875)年5月にようやく新川運河の部分だけが完成した。現在は運河べりに遊歩道「キャナルプロムナード」が整備されている。
兵庫住吉神社の祭神は上筒之男命・中筒之男命・底筒之男命・神功皇后。いずれも航海安全・陸上交通安全の神様である。明治初期、新川運河掘削にあわせて大阪の住吉大社から分霊を勧請し、明治11(1878)年に創建された。
福原遊郭は当初、高浜新田につくられたが、神戸駅建設にあたって湊川堤防の東に移された。福原の名は江戸の吉原、京都の島原に並ぶようにと「福原京」からヒントを得てつけられた。福原町にある金毘羅神社は、もと妙見堂のあった地に、遊郭の繁栄を願って明治15(1882)年に建てられた。
和田崎町1丁目(現在は三菱重工がある場所)に、明治23(1890)年、私設の遊園地『和楽園』が開設された。明治28(1895)年に京都で第4回内国勧業博覧会が開催されたときは、神戸市が協賛事業として『和田岬水族放養場』を開場。これは日本初の水族館といわれている。
延暦24(805)年、唐留学の帰りに和田岬へ上陸した最澄は、自作の薬師如来を本尊として安置し、「能福護国密寺」と名づけて日本初の教化霊場にしたという。境内に明治24(1891)年に兵庫の豪商・南条荘兵衛が寄進し大仏があった。奈良・鎌倉に並ぶ日本三大仏の一つと称したが、昭和19(1944)年の金属回収令で国に供出したためながらく台座だけになっていた。平成3(1991)年5月に関係者の努力によって再建された。胎蔵界大日如来像(毘慮舎那仏)で、本体11m、蓮台3m、台座4m。
中之島の県庁が移転したあとには、神戸で最も古い組織的な学校『明親館』が建てられた。神田兵右衛門などが和洋両学校の設立許可を得て、明治元(1868)年6月13日に開校式をあげたものの、明治5(1872)年に学制が発布され翌6(1873)年6月24日に閉校となった。しかし、明親小学校にその名が継承されている。
和田神社の大鳥居をくぐると、左側に神田兵右衛門顕彰碑がある。町兵隊の編成や明親館の建設、新川運河の造成、水道布設など数々の功績を後世に伝えるため、兵庫南浜7町が協力して明治44(1911)年3月に建てたものである。
「湊川」の名が記録に見えるのは、天平19(747)年、大和法隆寺の『流記(るき)資財帳』に「弥奈刀(みなと)川」とあるのが最初である。旧湊川は明治29(1896)年の大水害を契機に付替工事が進められ、湊川は長田の苅藻川に流しこまれた。もとの川筋は埋め立てて新開地の繁華街となった。明治39(1906)年12月に相生座が移ってからは劇場・寄席が並び、全国屈指の映画の街として発展した。
慶応4(1868)年1月11日、明治新政府より西宮の警備を命じられた備前藩の一隊が、三宮神社付近で行列を横切ろうとした外国軍水兵を刺傷した事件が「神戸事件」である。折衝の結果、第三砲隊長であった滝善三郎正信が全責任を負い、永福寺(戦災により焼失、その後移転)において切腹することになった。同寺に立てられた『滝善三郎供養碑』は、能福寺の境内に移され、毎年、地元関係者による供養の集いが開かれている。
烏原貯水池は湊川の上流・烏原川をせき止めて明治34(1901)年に着工、同38(1905)年に完成した。堰堤の長さ120m、高さ30mの石積みのダムによって造られた湖は周囲約3km、水面の面積11.5ha、貯水量は130万tである。この堰堤は国の登録文化財。
嘉永3(1850)年、浜田彦蔵は江戸から故郷の播磨町へ向かう航海の途中で遭難。米国船に救出されてアメリカに渡り、ジョセフ・ヒコと名を改め米国籍を取得した。安政6(1864)年には日本最初の新聞「海外新聞」を発行、また日米交渉にも重要な役割を果たした。能福治境内にはジョセフ・ヒコが寺の縁起を英語で記した、我が国初の外国人向け英文碑がある。
生島四郎は江戸末期の神戸村(中央区)の庄屋で、兵庫開港に際して外国人居留地の造成を請け負い、神戸村海浜(海岸通1番地)の持ち家をアメリカ領事館仮事務所とした。四郎は「当港市中取締方」や「当港市中取締方取扱」を歴任し、開港時の警備を担当。彼の功績を記した顕彰碑と、奉納した灯篭は祇園神社に残されている。
大正13(1924)年、神戸のシンボルとして高さ90mの『神戸タワー』が新開地に建設された。昭和43(1968)年、老朽化のために取り壊されたが、新しいシンボルとして昭和60(1985)年に湊川公園にカリヨン時計塔が建てられた。花崗岩を貼った8mの時計塔には、かつての神戸タワーを描いたプレートがはめこまれ、定時にはメロディ-で時を告げる。