最終更新日:2024年9月19日
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門口町の福厳寺は、14世紀はじめ仏燈国師が開いたと伝えられている。1333年後醍醐天皇が隠岐から京へ還幸の途中にここに立ち寄り、楠木正成や赤松円心らが天皇に合流した場所である。
延元元(1336)年の湊川合戦で和田岬一帯に陣を敷いた新田義貞軍に対し、足利尊氏は海から押し寄せた。新田方の本間孫四郎重氏は波打ち際の松の木に馬を寄せ、沖の船に向かって遠矢を射て両軍から喝采を浴びたと、『太平記』が記している。以来この付近は『遠矢の浜』と呼ばれ、松のかたわらに建てられていた『遠矢の松』の石碑もここに移されている。
天正8(1580)年に池田信輝が花隈城を落城させ、翌天正9(1581)年に遺材で築いたのが兵庫城である。城を築いて兵庫の町を拡張し、町の外郭に土塁と堀が築かれ、兵庫は数年間だが城下町として整備された。
後醍醐天皇が隠岐から還幸の途中、兵庫津の福厳寺に立ち寄られて滞在されたとき、薬仙寺の霊水を服薬のために差し上げたという。境内には『後醍醐天皇御薬水薬師出現古跡湧水』の碑がある。
旧湊川を埋め立てて明治44(1911)年11月に『湊川公園』が造られ、昭和10(1935)年に斎藤素厳作の大楠公像が建てられた。昭和46(1971)年の移転や令和2(2020)年の移転・改修を経て現在は公園の南部にある。
奈良時代の会下山付近は、奈良・法隆寺の領地であったことが同寺の『流記資財帳』に記され、当時は『宇奈五丘(うなごがおか)』と呼ばれていた。湊川合戦のときには楠木正成がこの山に本陣を置いたと伝えられている。
楠谷町の名は、奥平野浄水場の北に位置する『楠谷』で楠木正成が自刃したという伝説から来ている。この地に明治まで大きな塚があり、一帯は『塚町』と呼ばれていた。この楠谷町の19番地にある地蔵板碑は室町時代の作と推定される。
阿弥陀如来を本尊とする東柳原町の満福寺は、延慶元(1308)年に一遍上人の高弟・他阿(たあ)上人真教が開いたという。兵庫区には真光寺をはじめ時宗寺院がいくつかあるが、この寺は創建当時には真光寺の隠居寺であったといわれている。
切戸町あたりにあった『魚の御堂(うおのみどう)』は、奈良・西大寺の叡尊が兵庫に来たときの記録にも登場し、平清盛が魚を供養するために建てたといわれている。『太平記』や『梅松論』には、足利尊氏や尊氏の弟・直義とこの堂との関係が記されている。
生田神社御旅所がある大開通付近は、古い開墾地で「おおぼら」と呼ばれていた。なかでも永沢町弁天の東側に菱形の開拓地が2つあり、窪地を苦労して開いたためか「大開」と呼んでいた。御旅所はかつては水木通りにあり、柳原までの道筋は御旅筋と呼ばれてたいへんにぎわっていた。
旧兵庫の町の外郭の土手。池田恒興が兵庫城を築いたとき、町の外郭に土塁を築いて堀をめぐらしたといい、外輪堤(そとわづつみ)という呼び名で延長七百五十間(約1350m)、幅一間五尺~八間(約2~14m)もあったという。この「そとわづつみ」がのちに「とがつつみ=都賀堤」と呼ばれるようになった。
『西攝大観』によると古来、霊山寺のある石井町2丁目周辺は清水上山と呼ばれていた。「清水が湧き」、また「井戸を掘ったところ多くの石が出てきた」からこの地名がついたそうである。霊山寺にある地蔵立像には、文安3(1446)年11月の銘が入っている。
兵庫津の豪商・北風家の伝承によると、もと白藤姓を名乗っていた北風家が建武3(1336)年に、新田義貞に味方し、北風に乗じて足利尊氏と勇敢に戦ったことから「喜多風」の名を与えられたという。この北風家の菩提寺・西光寺は「白藤氏の菩提寺」ということで、俗に『藤之寺』と呼ばれるようになった。
鎌倉初期に藤原為家が「秋風に吹きくる峰の村雨にさして宿かる和田の笠松」と詠い、藤原季経も「木末までかかれる蔦のもみじして錦を織るや和田の笠松」と詠った『和田の笠松』。現在は、歌碑だけが残されている。
足利尊氏が開いた臨海宗福海寺の本尊は釈迦如来。福原西国三十三ヶ所の第二十三番札所で、尊氏や義満もたびたび訪れ足利歴代将軍の厚い崇敬を受けた。当時は二本松(JR兵庫駅の西)にあったが、嘉吉の乱(1441~3年)で焼失し現在地に移された。柳原惣門の要所に位置しているため、兵庫城の守備の役目をしたと思われる。
阿弥陀如来を本尊とする浄土宗阿弥陀寺。境内の中央には戦災で変形・変色した『楠公供養石』がある。これは湊川合戦で『魚の御堂』に本陣を置いた足利尊氏らが、敗れた楠木正成の首を置いて首あらためをした石だと伝えられている。
和田神社の北に法然上人ゆかりの『名号石』がある。承元元(1207)年に土佐へ流される法然上人がこのあたりに泊り、自ら「南無阿弥陀仏」の名号を石に彫って、民衆のために供養を行ったと伝えられている。
松原通の真光寺境内には一遍上人の廟所があり、壇の上に五輪塔が建てられている(塔も廟所もともに県指定史跡と文化財)。一遍上人は鎌倉時代の時宗(じしゅう)の開祖で、正応2(1289)年8月23日に51歳で、この地の観音堂で没した。なお真光寺には重要文化財の「紙本著色遊行縁起(詞行顕筆)」がある。
宝篋印塔は、本来は宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)経を納める塔だが、供養塔・墓碑塔として立てられることもあった。梅元町の民家内にある塔の来歴は定かでないが、付近の人は「ちぢみ(地神)さん」と呼び、歯痛の人が参詣して梨を供えると治るといわれている。また、湊川合戦に敗れた自刃した楠木正成の墓だという説もある。