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日本における合唱の黎明期と灘区における合唱活動(2023年1月)

最終更新日:2024年1月10日

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 1549年(天文18年)にスペイン人カトリック宣教師フランシスコ・ザビエルが、地の果てまで福音を伝える使命感に燃えて、鹿児島に上陸した。布教と共に讃美歌を歌った最も早い記録として、1551年(天文20年)の降誕祭に山口の教会大道寺で在留イエズス会士全員でミサが歌われている。平戸などでも熱心に布教活動が行われていたので、日本において最初に歌われたミサではないはずだが、日本で歌われたミサの最初の記録である。すなわち日本における最初のグレゴリオ聖歌の合唱である。その後、豊臣秀吉や徳川家康によるキリスト教禁教令によって徳川幕府末までの二百余年、キリスト教とともにミサは途絶えることとなる。(隠れキリシタンの歴史を省く)

 1853年(嘉永6年)にアメリカのペリー艦隊が浦賀に来航。これを機に今度はプロテスタント宣教師によるキリスト教の布教が展開されることとなる。ペリー艦隊は浦賀入港後の最初の主日に旗艦甲板にてブラスバンドの伴奏で合唱し、その響きは海岸の日本人にも聞こえたという。これを機にキリスト教は解禁となり、次々と教会の設立と同時にミッション・スクールの設立となり、教会で聖歌が歌われ、ミッション・スクールにおいても音楽教育とともに合唱が教授されていった。

 日本の合唱は教会とともにミッション・スクールによって、次第に民衆のなかにも広まっていくこととなった。そして1872年(明治5年)に政府は全国に学制を発布することとなる。音楽教育の開始はしばらく遅れをとるが、日本の学校教育の場における音楽教育が開始されていくこことなる。

 1889年(明治22年)神戸市灘区(現在の王子公園付近)にプロテスタントのミッション・スクール「関西学院」が設立。本館講堂から男声四部合唱が流れた。英語の讃美歌であった。この男声四部合唱が「関西学院グリークラブ」の創立とされている。その後、山田耕筰が入部。音楽的才能に優れた彼の力量もあって、同グリークラブは、日本のアマチュア合唱の雄として、今日もなお最高度の合唱を披露し、全日本合唱コンクールにおいてトップクラスの名声を維持し続けている。

 その後、終戦間もなく「神戸中央合唱団」が創立され、一般合唱団として日本の合唱界を大きくリードし、全日本合唱コンクールにおいて幾度となく優勝に輝いている。さらに灘区には全日本合唱コンクール高等学校の部において幾度も優勝に輝いている「県立神戸高等学校」、同じく中学校の部において「市立鷹匠中学校」など、「灘区コーラスフェスティバル」に出演している各団体はいずれも長い歴史と伝統を誇り、見事な演奏を披露し続けている。

 このように優秀な合唱団体が灘区に集中している喜びを、まずは灘区民の皆様に広くご承知いただき、これらの団体が演奏を披露する「灘区コーラスフェスティバル」の会場にご来聴くださるようにと願うところである。

(灘区コーラスフェスティバル司会進行 矢田 正一)

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