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西区の歴史 近世

最終更新日:2023年9月27日

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近世

1568年(永緑11年)尾張出身の織田信長が京に入って畿内を制圧し、近在の三好勢が追放されると、東播磨では三木の別所氏が戦国大名として成長していきます。このあたりの豪族や寺院勢力も別所氏の配下に入っていきました。

やがて別所氏は、中国地方の覇者毛利氏と結んで、畿内・中部地方を統一した織田信長と対立しはじめます。この結果、信長は部下の羽柴秀吉を播州攻略に向かわせ、1578年(天正6年)から足かけ3年にわたる三木攻めが行われたのです。

神戸市北区の丹生山明要寺や石峯寺、淡河城が攻略され、西区の地域でも別所と結んでいた枝吉城・福中城・櫨谷城は陥落し、近江寺・如意寺・最明寺なども兵火にかかって焼失したと伝えられています。

畿内のすぐ西はずれに位置するこの地方は、こうして南北朝や戦国時代の中央の政争にも巻き込まれていきましたが、その動揺の中で生活を守ろうとして農民たちの結束も強まり、明石川の本流や支流の流域に多くの村々が形成されていきました。その村々がほぼ旧来の大字に相当すると考えてよいでしょう。

信長の死後、天下を統一した豊臣秀吉は検地や刀狩りを行って、近世の封建社会の基盤を固め、伊川谷の白川村と布施畑村の間、塩屋川沿いの多井畑村と下畑村の間などを、改めて摂津と播磨の国境と定めています。秀吉の下で、明石郡の中心として、明石川口の西方に船上(ふなげ)城が築かれ、1585年(天正13年)キリシタン大名の高山右近がそこに入城しました。しかし、その2年後に西区域を含む明石地方は秀吉の直轄地になっています。

秀吉が没した後の関が原の戦いの後、播磨一円は姫路城主の池田輝政の配下に入り、明石郡は代官・池田出羽由一によって治められることになりました。西区の地方も平和を取り戻しました。

1617年(元和3年)、現在の明石城が築かれて、小笠原忠真が城主となって明石藩が誕生してから、西区の地域は明治の廃藩置県に至るまで、この明石藩の支配を受けました。17世紀の後半まで親藩や譜代の諸侯が次々と転入・転出した後、1682年(天和2年)越前大野から入封した松平家が明治まで襲封して、この地を治めました。

各地での幕府や藩の新田開発奨励のなかで、この地方でも17世紀半ばを中心に、神出町や岩岡町あるいは伊川谷町の漆山のような明石川流域周辺の台地上に、新田の村々が形成されました。ことに1659年(万治2年)に藩主となった松平日向守信之は熱心に新田開発や勧農策をとったといいます。

彼の遺徳をしのんで、信之の死後に農民たちは各地の新田地帯に供養の石塔などを建立しました。それらは今も「日向さん」と呼ばれて区内神出の最明寺や漆山、神戸市垂水区霞が丘、明石市の大久保町森田・鳥羽円通寺・魚住町清水などで、今もまつられています。

台地上の新田地帯は水不足のために畑作が中心となりましたが、ことに岩岡町では1691年(元禄4年)藩主松平直明の勧めでたばこの栽培が始められました。これは名産「赤坂煙草」の名で藩財政を潤しました。ここでは1900年(明治33年)にアメリカから洋風の品種や技術を導入してタバコの生産を続け、日本の近代タバコ栽培の発祥地と称されています。

こうして、近世には安定した農村社会が発展していきました。

この時代の西区の農村文化の中では、農民への能の浸透が興味深いものです。収穫の後の秋祭りの際に、村の鎮守の社ではさまざまな祭礼が行われ、芸能が奉納されます。このような場合に芝居が演じられる場、つまりいわゆる農村歌舞伎舞台の分布に関して、兵庫県は全国的にも屈指の舞台数が確認されており、神戸市北区山田町下谷上の舞台のように指定文化財となっているものが数棟あります。

ところが、櫨谷町・平野町・玉津町・神出町には、現存する5棟の能舞台が確認されています。これは、江戸時代に毎年年貢納入後に明石城主が各村の庄屋を招いて、城下にあった護国神社で能を観せたしきたりが農村部へも拡大されたものと思われます。全国的にも農村舞台は歌舞伎の舞台が一般的であることを考えると、加古川流域の大きな能舞台分布圏と並んで、明石川流域も珍しい地域だといえます。また各地に追儺(ついな)の鬼追いが伝承されていることも興味深いものです。

黄色煙草記念碑(岩岡町)

明治初期の雌岡山上『明治新撰播磨名所図』より

春日神社の能舞台(平野町)

 

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