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こうべキッズ百科:歴史(できごと2)

最終更新日:2019年11月1日

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阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)

阪神・淡路大震災は、1995年(ねん)(平成(へいせい)7年)1月17日の、午前(ごぜん)5時(じ)46分(ふん)におこりました。

神戸市(こうべし)の中心部(ちゅうしんぶ)から、西宮市(にしのみやし)、宝塚市(たからづかし)、淡路島(あわじしま)の北淡町(ほくだんちょう)では震度(しんど)7を記録(きろく)しました。その揺(ゆ)れは、関東(かんとう)大震災(だいしんさい)をはるかに上回(うわまわ)り、観測史上最高(かんそくしじょうさいこう)の記録でした。

わずか数十秒(すうじゅうびょう)の揺れで、神戸市内(こうべしない)だけでも、67421戸(こ)の家(いえ)が全壊(ぜんかい)しました。
さらに、地震後(じしんご)におきた火事(かじ)によっても、多(おお)くの方々(かたがた)が亡(な)くなりました。
亡くなった方は、4571人にのぼりました。

電気(でんき)と水道(すいどう)は市街地(しがいち)を中心(ちゅうしん)にほぼ全部止(ぜんぶと)まり、ガスは、およそ80パーセントが止まりました。
電話(でんわ)も、およそ25パーセントが通話(つうわ)できなくなりました。

高速道路(こうそくどうろ)が倒(たお)れて、全面通行止(ぜんめんつうこうどめ)になるなど、計(はか)り知(し)れない被害(ひがい)を受(う)けました。

被災(ひさい)した人は、約600箇所(やく600かしょ)の避難所(ひなんじょ)で、帰(かえ)ることができる家(いえ)のないまま、長(なが)い間(あいだ)、厳(きび)しい生活(せいかつ)を送(おく)ることになりました。

また、長田(ながた)のケミカルシューズや、灘(なだ)を中心にした酒造業(しゅぞうぎょう)、中央区(ちゅうおうく)の真珠加工業(しんじゅかこうぎょう)などの地場産業(じばさんぎょう)も大(おお)きな被害を受けました。

今(いま)、神戸の人たちは、多(おお)くの大切(たいせつ)な命(いのち)を失(うしな)った悲(かな)しみを乗(の)りこえて、さらに災害(さいがい)に強(つよ)い街(まち)をつくるために前進(ぜんしん)しています。

財団法人 ひょうご震災記念21世紀研究機構のホームページへ(外部リンク)

阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)の被災(ひさい)の状況(じょうきょう)

阪神・淡路大震災は、1995年(平成(へいせい)7年)1月17日の午前5時46分に起こりました。
震源地(しんげんち)は淡路島(あわじしま)で、震源(しんげん)の深(ふか)さは約(やく)16キロメートル。
マグニチュード7.3(最大(さいだい)震度は7)で、横(よこ)揺れと縦(たて)揺れが同時(どうじ)に発生(はっせい)しました。
日本(にほん)では初(はじ)めての、近代的(きんだいてき)な大都市(だいとし)を襲(おそ)った直下型(ちょっかがた)大地震でした。

神戸市では、震災関連(かんれん)で亡(な)くなった人もふくめ、4571人の人が亡くなりました。
行方不明者(ゆくえふめいしゃ)2人、けがをした人は14678人です。
特(とく)に被害(ひがい)の大きかった東灘区(ひがしなだく)では1470人、灘区(なだく)では934人、長田区(ながたく)では921人の人が亡くなっています。

また、建物被害(たてものひがい)は、全壊(ぜんかい)の家が67421棟(むね)で、半壊(はんかい)の家が55145棟でした。1996年(平成8年)2月1日までで、全焼(ぜんしょう)の家は6965棟、半焼(はんしょう)の家は80棟。
全壊・全焼が、もっとも多(おお)かったのは長田区でした。
大都市(だいとし)を直撃(ちょくげき)した地震(じしん)のため、電気(でんき)、水道(すいどう)、下水道(げすいどう)、ガスなどのライフラインにも大きな被害がありました。
電気と水道は市街地(しがいち)を中心にほぼ全部止(ぜんぶと)まり、ガスは、およそ80パーセントが止まりました。
電話(でんわ)も、およそ25パーセントが通話(つうわ)できなくなりました。
地震後(ご)に、電気が復旧(ふっきゅう)したのは1月23日です。
ついでガスが4月11日に、水道は4月17日に使(つか)えるようになりました。
交通(こうつう)では、阪神高速(こうそく)道路3号(ごう)神戸線(こうべせん)や5号(ごう)湾岸線(わんがんせん)などは、一部(いちぶ)が倒(たお)れたために通(とお)れなくなりました。
一般(いっぱん)道路(どうろ)も、あちらこちらで通行止めになりました。
一方(いっぽう)、鉄道(てつどう)はJR神戸線(こうべせん)、阪急電鉄(はんきゅうでんてつ)、阪神電車(はんしんでんしゃ)などがすべてストップしました。さらに、海上都市(かいじょうとし)ポートアイランドや六甲(ろっこう)アイランドへの交通もストップしました。

社会(しゃかい)や産業(さんぎょう)にあたえた損害額(そんがいがく)は、約(やく)6兆(ちょう)9千億円(せんおくえん)と考(かんが)えられています。

復興(ふっこう)のあゆみ(住宅(じゅうたく))

神戸市の人口(じんこう)は、震災(しんさい)直前(ちょくぜん)の1995年(平成7年)1月1日では、152万365人でしたが、震災後(ご)は約142万人まで減(へ)ってしまいました。

それが、2005年5月の時点(じてん)では、152万3,158人まで増(ふ)え、震災前(まえ)の人口を初(はじ)めて上回(うわまわ)りました。

震災によって壊(こわ)れた、約82000棟(とう)の家(いえ)も、すでにマンションなどに建(た)て直(なお)されています。

1999年(平成11年)には、仮設住宅(かせつじゅうたく)に入(はい)っていた人の全(すべ)てが、ずっと住(す)むことのできる住宅へ移(うつ)ることができました。
そのために、災害復興公営住宅(さいがいふっこうこうえいじゅうたく)という、震災の被害(ひがい)にあった人が優先的(ゆうせんてき)に入ることのできる市営住宅(しえいじゅうたく)も、1万戸(こ)以上(いじょう)建てられました。

たくさんの災害復興公営住宅をはじめ、個人(こじん)で家も建てられていて、住宅(じゅうたく)については一応(いちおう)の復興(ふっこう)をしたといえます。

建物(たてもの)の倒壊(とうかい)によって多くの方が亡くなられた阪神・淡路大震災。神戸市は、「神戸市耐震改修促進計画」(こうべしたいしんかいしゅうそくしんけいかく)を策定(さくてい)し、学校などの公共建築物(こうきょうけんちくぶつ)から個人の家まで、より一層(いっそう)、建物の耐震化促進(たいしんかそくしん)に力を入れています。

復興(ふっこう)のあゆみ(交通(こうつう))

震災(しんさい)により、神戸市内のすべての交通(こうつう)が被害(ひがい)を受(う)けました。

鉄道(てつどう)で最初(さいしょ)に全線(ぜんせん)が復旧(ふっきゅう)したのは、被害(ひがい)の少(すく)なかった「北神急行(ほくしんきゅうこう)」の三宮(さんのみや)から谷上(たにがみ)間(かん)で、1995年(平成(へいせい)7年)1月18日に復旧(ふっきゅう)しました。

2月16日に「神戸市営地下鉄(こうべしえいちかてつ)西神・山手線(せいしん・やまて)」が復旧し、4月1日には「JR神戸線」が復旧しました。
6月中には「阪急電鉄(はんきゅうでんてつ)」、「山陽電鉄(さんようでんてつ)」、「神戸電鉄(こうべでんてつ)」、「阪神電車(はんしんでんしゃ)」、「市バス」が全線(ぜんせん)開通(かいつう)しました。

7月31日には「神戸新交通(こうべしんこうつう)ポートライナー」が開通(かいつう)しました。
復旧までに一番(いちばん)時間(じかん)がかかったのは、「神戸新交通六甲(ろっこう)ライナー」で、復旧したのは1995年(平成7年)8月23日でした。

「高速道路(こうそくどうろ)」は、東灘区の一部(いちぶ)の区間(くかん)で横倒しになるなど、大きな被害を受けました。そのうち、阪神(はんしん)高速道路5号(ごう)湾岸線(わんがんせん)は1995年(平成7年)9月1日に全線が復旧しました。
ハーバーハイウェイは1996年(平成8年)8月24日に、阪神高速道路3号神戸線は、1996年(平成8年)9月30日に、それぞれ全線が復旧しました。

復興(ふっこう)のあゆみ(生活再建支援(せいかつさいけんしえん))

神戸市の人は、震災(しんさい)以来(いらい)、地域(ちいき)の中(なか)で、共(とも)に助(たす)けあったり、支(ささ)えあったりできる、人と人との「つながり」の大切(たいせつ)さを学(まな)んできました。

ところが、住宅(じゅうたく)などの復興が進(すす)む一方で、地域(ちいき)のつながりは失(うし)なわれていきました。
特(とく)に、災害復興公営住宅(さいがいふっこうこうえいじゅうたく)などではお年寄(としよ)りが集中(しゅうちゅう)し、家(いえ)に閉(と)じこもってしまう人もふえてきました。

公営住宅(こうえいじゅうたく)以外(いがい)でも、すべての人が安心(あんしん)してくらせるように、民生委員(みんせいいいん)や訪問(ほうもん)ボランティアなどによる活動(かつどう)がおこなわれています。
市内(しない)の78か所(しょ)には便利(べんり)な相談窓口(そうだんまどぐち)として「あんしんすこやかセンター」がおかれています。
また「えがおの窓口(まどぐち)」も、市内(しない)におよそ472か所おかれています。

最近(さいきん)では子(こ)どもの数(かず)が少(すく)なくなっていることもあり、社会(しゃかい)や学校(がっこう)や会社全体(かいしゃぜんたい)で子育て(こそだて)を応援(おうえん)していく必要(ひつよう)がでてきました。
そのため、子育(こそだ)て相談(そうだん)をおこなったり、保育所(ほいくしょ)をつくったり、学童保育(がくどうほいく)を充実(じゅうじつ)させることに力(ちから)をいれています。
児童館(じどうかん)を日曜日(にちようび)や祝日(しゅくじつ)にもあけたりしています。

また、子どもが少なくなって閉鎖(へいさ)された小学校(しょうがっこう)も市民(しみん)が活動(かつどう)したり学(まな)んだりできる場所(ばしょ)や観光(かんこう)スポットなどにかえて、たくさんの人々(ひとびと)が集(つど)う場所になっています。

復興(ふっこう)のあゆみ(神戸港(こうべこう))

震災(しんさい)によって、神戸港(こうべこう)の東西(とうざい)20キロメートルにわたる区域(くいき)は大(おお)きな被害(ひがい)をうけました。
約(やく)116キロメートルにもおよぶ港(みなと)の水際(みずぎわ)線の大部分(だいぶぶん)が被害をうけました。
跡形(あとかた)もなく、潰(つぶ)れてしまった所(ところ)もありました。

道路(どうろ)が使(つか)えず、電車(でんしゃ)もとまり、交通(こうつう)がまひしているとき、もっとも大事(だいじ)な生命(せいめい)線は海上(かいじょう)交通でした。
私(わたし)たちの飲(の)み水みずや食料品(しょくりょうひん)、医薬品(いやくひん)など、すぐに必要(ひつよう)なものを運(はこ)ぶためにも、港の復旧(ふっきゅう)と船(ふね)の運行(うんこう)に力(ちから)がそそがれました。

また、神戸港は神戸市の経済(けいざい)にとっても重要(じゅうよう)な役割(やくわり)を果(は)たしています。
すこしでも早(はや)く復旧(ふっきゅう)するように、多く(おお)の人々(ひとびと)が努力(どりょく)してきました。

その結果(けっか)、震災の直後(ちょくご)には、船(ふね)を着(つ)けることができなかった大型岸壁(おおがたがんぺき)も、約(やく)2年で復旧し、コンテナ船(せん)や貿易船(ぼうえきせん)の入港数(にゅうこうすう)も、徐々(じょじょ)に震災前(しんさいまえ)の数に戻(もど)ってきました。

今(いま)、神戸港は、新(あたら)しい産業(さんぎょう)や、2006年(ねん)(平成(へいせい)18年)2月に開港(かいこう)した神戸空港(こうべくうこう)などの施設(しせつ)と連携(れんけい)して、街(まち)と港が一体(いったい)になった取(と)り組(く)みを、進(すす)めています。

また、開港150年の節目(ふしめ)の年(とし)である2017年には、メリケンパークがリニューアルされ、震災から20年を機(き)にうまれたロゴマーク「BE KOBE」のモニュメントが建(た)てられ、神戸の人気(にんき)スポットになっています。
おなじ年には、コンテナ貨物取扱量(かもつとりあつかいりょう)が過去最高(かこさいこう)を記録(きろく)しています。

国内(こくない)からの支援(しえん)

震災後(しんさいご)、神戸市にたいして「すぐに応援(おうえん)したい」という申し出(もうしで)が、日本中(にほんじゅう)からたくさんありました。
しかし、神戸市の中(なか)では、どのような応援が必要(ひつよう)なのかが分(わ)からないほど混乱(こんらん)していました。そのような中で、自主的(じしゅてき)に駆(か)けつけてくれた都市(とし)がたくさんありました。

震災のその日から、北(きた)は北海道(ほっかいどう)から南(みなみ)は沖縄県(おきなわけん)まで、全国の都道府県(とどうふけん)と市町村(しちょうそん)などから応援にきた人は、1995年(平成(へいせい)7年)11月までで、のべ13万6484人にもなりました。
とくに、震災から約(やく)1か月たつと、震災の被害(ひがい)あったことを証明(しょうめい)する、り災証明書(りさいしょうめいしょ)の発行(はっこう)もはじまり、多数(たすう)の人手(ひとで)が必要(ひつよう)になりました。

応援の活動内容(かつどうないよう)も、はじめのころは物資(ぶっし)の供給(きょうきゅう)や、保健医療(ほけんいりょう)などの救援(きゅうえん)が中心(ちゅうしん)でした。
次(つぎ)には避難所(ひなんしょ)の運営(うんえい)などになり、さらに被災者(ひさいしゃ)の方(かた)に、いろいろな必要な品物(しなもの)をわたす、給付業務(きゅうふぎょうむ)へとうつっていきました。

1995年(平成7年)の4月からの1年間では、全国(ぜんこく)11の政令指定都市(せいれいしていとし)から、建築(けんちく)や、倒れた家の調査(ちょうさ)など、専門分野(せんもんぶんや)の人が応援にきてくれました。

また、消防局(しょうぼうきょく)へも、全国の消防本部(ほんぶ)の約半数(はんすう)にあたる456本部の応援がありました。
これほど多くの応援があったのは、それぞれの都市に消防ができて以来、はじめてのことだといわれています。

さらに、水道局(すいどうきょく)からは、1月17日のその日に12大都市(だいとし)へ応援を依頼(いらい)しました。
その結果(けっか)、1月から3月の中ごろまでに、自衛隊(じえいたい)のほか、211団体(だんたい)から3万627人と1万4100台(だい)の給水車(きゅうすいしゃ)の応援がありました。

このように、いろいろな方面(ほうめん)からの、多くの人々の応援のおかげで、神戸市は現在(げんざい)のように立ち直(たちなお)ってきたといえます。

海外(かいがい)からの支援(しえん)

震災(しんさい)直後(ちょくご)から、海外(かいがい)からも、物資(ぶっし)や救援隊(きゅうえんたい)などを送(おく)りたいという、支援(しえん)の申し出(もうしで)がありました。
支援の申し出は、2月1日までに67の国(くに)や地域(ちいき)からありましたが、神戸市が実際(じっさい)に受(う)け入(い)れたのは27の国や地域だけでした。
それは、「何(なに)を送ればいいのか」という問(と)い合(あ)わせに対(たい)して、すぐに答(こた)えることができないほど混乱(こんらん)していたからです。

隊員(たいいん)26人と、捜索犬(そうさくけん)2頭(とう)からなるスイス災害救助隊(さいがいきゅうじょたい)は、東灘区(ひがしなだく)、灘区(なだく)、長田区(ながたく)で1月19日から活動(かつどう)をはじめ、22日までに15人の遺体(いたい)を発見(はっけん)しました。
このほか、フランス災害救助隊は、隊員(たいいん)61人と犬(いぬ)4頭で、イギリス国際(こくさい)救助隊は15人の隊員が、行方不明者(ゆくえふめいしゃ)の捜索活動(そうさくかつどう)をおこないました。

その後(ご)も、1995年(平成7年)までのしらべで、44の国と地域から、物(もの)やお金(かね)が届(とど)けられました。

海外(かいがい)からの支援で送られてきた物資には、お金のほか、飲料水(いんりょうすい)、テント、粉(こな)ミルク、毛布(もうふ)、缶詰(かんづめ)、紅茶(こうちゃ)、使(つか)い捨(す)て食器(しょっき)などさまざまな物があります。

阪神・淡路大震災の教訓(きょうくん)

阪神・淡路大震災を経験(けいけん)し、人とのつながりの大切(たいせつ)さ、災害(さいがい)につよいまちづくりの重要性(じゅうようせい)など、多(おお)くの教訓(きょうくん)を得(え)ました。

まず、平成(へいせい)7年度(ねんど)から神戸市防災福祉(こうべしぼうさいふくし)コミュニティ事業(じぎょう)がスタートし、神戸市内全域(こうべしないぜんいき)192地区(ちく)で神戸市防災福祉コミュニティが結成(けっせい)されています。
「神戸市防災福祉コミュニティ」は、それぞれの地域(ちいき)の特色(とくしょく)をいかした形(かたち)で、隣近所(となりきんじょ)での消火器(しょうかき)の取(と)り扱い訓練(くんれん)、子(こ)どもたちに震災教訓(しんさいきょうくん)を伝(つた)える取(と)り組(く)み、大規模(だいきぼ)な地震対応(じしんたいおう)の総合訓練(そうごうくんれん)や津波避難訓練(つなみひなんくんれん)など災害活動(さいがいかつどう)につながる訓練をおこなっています。

また、「神戸市水道施設耐震化基本計画」(こうべしすいどうしせつたいしんかきほんけいかく)を策定(さくてい)し、平成27年度末(ねんどまつ)には、大容量送水管(だいようりょうそうすいかん)が完成(かんせい)し、災害時(さいがいじ)の応急給水(おうきゅうきゅうすい)が強化(きょうか)されました。さらに、市内各地(しないかくち)に耐震性防火水槽(たいしんせいぼうかすいそう)が整備(せいび)されました。

一体的(いったいてきな)な危機対応(ききたいおう)をおこなうための中枢拠点(ちゅうすうきょてん)である危機管理(ききかんり)センターは、平成14年に建(た)てられました。
このうち、1階(かい)部分(ぶぶん)は大規模災害発生時(だいきぼさいがいはっせいじ)には本部員会議室(ほんぶいんかいぎしいつ)、プレスセンターとして利用(りよう)しますが、平常時(へいじょうじ)にはオープンなスペースとして防災(ぼうさい)グッズの展示(てんじ)をしたり、震災の教訓(きょうくん)を伝(つた)えるためのイベントをおこなっています。

阪神大水害(はんしんだいすいがい)

昭和13年災害時雨量

阪神大水害は、1938年(昭和13年)7月に起こりました。

7月3日の夕方(ゆうがた)から降り始(ふりはじ)めた大雨(おおあめ)は、4日、5日と降りやまず、5日の午後1時20分まで降り続(つづ)けました。
降った雨の量(りょう)は、3日間で461.8ミリという、記録的な数字(すうじ)になりました。

花岩(かこうがん)の風化(ふうか)によって、もろくなっていた六甲山系(ろっこうさんけい)の山々は、この雨によって、いっせいに崩れ落(くずれお)ちてきました。

土砂(どしゃ)とともに、巨大(きょだい)な岩(いわ)や大木(たいぼく)などを押し流(おしなが)した水は、川(かわ)の堤防(ていぼう)を壊(こわ)して、市街地(しがいち)へ流れこみました。

交通機関(きかん)はずたずたに切(き)られ、電話もつながらず、神戸の都市(とし)ての機能(きのう)はすべて奪(うば)われました。

市内の死者(ししゃ)616人、ケガをした人1011人、壊されたり、流されたり水に沈(しず)んだ家は4477戸、半壊した家6440戸、浸水(しんすい)した家7万9652戸という阪神間の風水害では最悪(さいあく)の被害を受けました。

原因(げんいん)は、六甲山系の特別(とくべつ)な地質(ちしつ)と異常(いじょう)な量の雨です。
その他、山の開発や、川の幅(はば)を狭(せま)くしすぎたことなども、原因のひとつとされています。

阪神大水害の様子は、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)が小説(しょうせつ)「細雪(ささめゆき)」の中で詳(くわ)しく描(えが)いています。

その後、市内の各地に水害に関する碑(ひ)が建てられました。


阪神大水害 水害直後の様子1 出典:「新中央区歴史物語」


阪神大水害 水害直後の様子2 出典:「新中央区歴史物語」


阪神大水害 水害直後の様子3 出典:「新中央区歴史物語」