KOBEの本棚 第40号

最終更新日:2023年7月27日

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-神戸ふるさと文庫だより-

  • 第40号 平成14年3月20日
  • 編集・発行 神戸市立中央図書館

内容


昭和初期の絵はがきに見る錨山と市章山

  • 「そばめし」(エッセイ)
  • 新しく入った本
  • ランダム・ウォーク・イン・コウベ

そばめし

ご飯と細かくきざんだ焼きそばの麺に、肉や野菜をまぜて辛口ソースでいためたものがそばめしです。そばめしを、オムレツのように卵でくるめば、オムそばめしになります。

そばめし発祥の地は、昭和三十年代の神戸市長田区あたりといわれています。工場で働く人びとが昼休みになると、冷や飯をお好み焼き店に持参し、焼きそばといっしょにいためてもらったのが始まりだそうです。

ここ数年、冷凍食品のそばめしが爆発的に売れています。そばめしをメニューに加えるお好み焼き店も、各地で増えてきました。そばめしには欠かせないといわれる「どろソース」の売上も急速に伸びています。庶民的で懐かしいそばめしの味が、たくさんの人に受け入れられたようです。

安くて美味しい。しかも十分な満腹感まで得られるそばめしは、典型的な庶民の味といえるでしょう。神戸の下町で生まれ、四十年以上も愛されてきた味が、いま全国の味になろうとしています。

新しく入った本

孫文と神戸―辛亥革命から90年 補訂版

陳徳仁・安井三吉(神戸新聞総合出版センター)

孫文と神戸孫中山記念館(旧移情閣)館長陳氏と孫文研究家の対談。開港以来、華僑が多く住む神戸は、孫文とのゆかりが深い。清朝末期の社会矛盾のなかで三民(民族・民権・民生)主義を掲げて辛亥革命を指揮した孫文。ある時は支援を求めて、ある時は亡命のために神戸を訪れた。本書は、十八回に及ぶ孫文の神戸訪問の様子を、神戸又新日報と神戸新聞の記事を引用しながら、その足跡を辿ったもの。

二千年にわたる皇帝支配を打倒し、中国を近代化へ導き、人びとから国父として敬愛されている孫文の人柄と、彼を迎えた当時の華僑社会のいきいきとした雰囲気が伝わってくる一冊。

大震災を語り継ぐ

神戸大学震災研究会編(神戸新聞総合出版センター)

大震災を語り継ぐ人びとは、あの大震災をさまざまな形や方法で語り継ごうとしている。ホームページを立ち上げる人。モニュメントを建てる人。ウォークに参加する人。震災犠牲者への聞き語り調査をする学生など。震災はどのように語られ、また語り継がれていくのか。そして、その意味とは何なのかを考える。シリーズ「阪神大震災研究」の最終巻。

川西の人と歴史

菅原いわお(創元社)

川西の人と歴史川西市は、神戸の東部、兵庫県と大阪府の府県境に位置する。近年、宅地開発が進み急激に変貌しつつある。川西の歴史は古く、旧石器や縄文時代の石器や土器が多数出土し、弥生時代の集落跡もみられる。中世になると清和源氏の始祖源満仲が、本拠地を構え、武士団を形成することとなる。各時代にまつわる川西の名所旧跡やゆかりの人々を話題にしながら川西の歴史を紹介する。

防災の社会心理学―社会を変え政策を変える心理学

林理(川島書店)

防災の社会心理学災害は起こるべくして起こったといえる場合が多い。つまり、もともとある問題を事前に認識し、「備え」ることによって、被害を軽減することができる。被害を減少させることが災害科学の目的であり、これまでは技術的に「優れた」と判断されたものを実行することが有効な防災施策としてきた。しかし、人は防災のような長期的な問題に関心を維持することは難しい。本書は、住民の防災意識を高めるには、施策への合意が不可欠であり、人びとの求める「望ましい施策」の検討には、心理学の活用が重要だと指摘する。

黒い虹よ、七色に―今も阪神淡路大震災とたたかう遺児たち

今関信子(佼成出版社)

神戸市東灘区にあるレインボーハウスは、震災で親を失った子どものためのケア施設。本書は、交通遺児の支援を続けてきたボランティア団体「あしなが育英会」の活動から、この施設開設に至る経緯を、ボランティア活動と遺児の体験談を交え、子ども向けの作品にしたもの。PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ子どもへの共感と励ましの本でもある。

救助犬トミー出動す

大山直高(東京新聞出版局)

危険と隣り合わせの災害現場で捜索活動をするトミーと著者。ごく普通の飼い主とペットとして暮らしていた彼らを、災害救助へと導いたのは阪神淡路大震災だった。手探りで始めた訓練の、長かった道のりや救助活動の厳しさを語る著者。その視線は、トミーの育ての親としての愛情にも満ちている。震災を生き残った「私たちの責任」という著者の言葉が響く一冊。

神戸市街地定点撮影―1995-2001復活への軌跡

関美比古・高橋勝視写真(毎日新聞社)

神戸市街地定点撮影震災直後から平成十三年にかけて、市内四十一箇所で定点撮影を続けることで、それぞれの街の再生経過を捉えた写真集。

倒壊・焼失した震災直後の街から、瓦礫が撤去され、建物が建設され、街は再建をめざして動いてきた。しかし、復興の速度は、すべての地域で一定ではなかったことがわかる。経済事情や人間関係の変化、街それぞれの現実的な課題に揺らぐ住民たちの声は、取材記事の形で織りこまれ、神戸再生の今後を改めて問う一冊となっている。

神戸福原物語

北川冬樹(健友館)

神戸福原物語北川冬樹、四十七歳。昨年妻から離婚され、リストラ策をすすめる会社を退職して現在無職。まとまった退職金で、しばらくは浮かれた生活を送り、夜の町の「顔」になる。が、やがて貯金も底をつき…。

福原の町を舞台に、人生の天国と地獄を味わった男が得た平穏な生活と心のよりどころ。愛する福原の町で人生の再出発を誓う男の物語。

歩みながら―随筆集

井戸敏三(兵庫ジャ―ナル社)

歩みながら現兵庫県知事である著者は兵庫県新宮町生まれ。本書は、県下で発行された広報紙などに発表された文章を集めたもの。子どもの頃の思い出、父親や家族にまつわる話、趣味の話から、身近な社会現象まで、話題はさまざま。ワークシェアリングや地球温暖化対策など、これまでの県の施策に関する話題からは、県政レベルを超えて、現代社会全体の課題に対する知事のスタンスも見えてくる。

金メダルシューズのつくり方―"世界のミムラ"が明かすシューズ職人の哲学

三村仁司(情報センター出版局)北川

金メダルシューズのつくり方シドニー五輪の金メダリスト高橋尚子。バルセロナ五輪やアタランタ五輪で活躍した有森裕子。彼女たちの足元を支えたのは「ミムラシューズ」だった。

著者は、加古川市の出身。神戸に本社を置くアシックスで、三十年近く別注シューズ作りに携わってきた。単に注文どおりに作るのではない。選手以上に彼らの身体を理解し、彼らの希望を上回るものを作る。「ミムラシューズ」の真髄である。

著者自らも陸上選手であった故か、本書の行間には、選手への温かい眼差しが感じられる。

その他

  • おもろうてためになる関西企業ミュージアム ユーモアエクスプレス編(出版文化社)
  • 60歳からのティーショット 古市忠夫(日本放送出版協会)
  • 播磨山の地名を歩く 播磨地名研究会編(神戸新聞総合出版センター)
  • 都市政策・神戸都市学 太田修治(みるめ書房)
  • 校長の学校改革―原点としての解放教育 西田秀秋(社会評論社)
  • 絆―大震災からの再出発 延藤十九雄(文芸社)
  • 宝塚映画製作所―よみがえる"映画のまち"宝塚 宝塚映画祭実行委員会編(神戸新聞総合出版センター)
  • 島尾敏雄と奄美 藤井令一(まろうど社)
  • 風―井口恒子歌集 (角川書店)
  • ズガ池堤の家 木辺弘児(大阪文学学校・葦書房)
  • さぎ草ものがたり(竹田道子)
  • 幸せな新老人 杉山英一(芦屋総合研究会)
  • おりおりの記―水道局での四十一年 吉川辰正(文芸社)

ランダム・ウォーク・イン・コウベ 40

錨山と市章山

神戸港から市街地を見上げると、諏訪山の背後に錨の形と市章をかたどった植樹をした山が見えます。

錨山と市章山です。これらの山は、神戸で開催されたさまざまな記念式典とゆかりがあります。

観艦式と錨山

明治三十六年四月、神戸沖で観艦式が行われました。観艦式というのは、天皇陛下をお招きして行う海軍の大演習です。海上に七十余隻の満艦飾の(旗飾りをほどこした)軍艦が隊列をなし、帝国海軍の威勢を誇りました。神戸市にとっては、一大行事です。有栖川宮殿下もご臨席になり、列席者は貴族院議員衆議院議員だけで三百二十名、東郷海軍中将ほか、陸海軍人とその家族親戚も千二百人を越えました。

市内各所ではさまざまな式典が催され、街は興奮に包まれました。式の当日は、天皇陛下が到着した神戸駅から、お召艦「浅間」の停泊しているメリケン波止場まで、陛下をお迎えする市民が、通りの両側に立ち並びました。

市内各学校長は奉迎のため小学校三年生以上の生徒に美濃紙で一人一つずつ国旗を作らせ、縦横六十間(約109m)の大錨形につなぎとめたものを諏訪山の背後の山に設置して歓迎の意を表しました。これを目にした陛下が興味を持たれ、侍従にご質問されます。当時の神戸市長・坪野平太郎によって事由説明が奏上され、この児童たちの奉迎の気持ちが陛下にまで届けられます。これを知った各校の生徒・父兄たちは、大変名誉なことと喜びました。このことを記念して市長は、錨の紙あとに松の木を植樹し、無名だった山は、錨山と名づけられました。

神戸築港起工式と市章山

神戸市の市徽章(以下、市章)の制定は、明治四十年五月のことです。その前年神戸市は、市章を制定するために、その図案を懸賞公募しました。『神戸市史』によると、公募では適当なものがなく、選定は市長に一任されました。

神戸市章神戸は当時の仮名づかいでは「カウベ」と書かれていました。市章は、その「カ」の字を図案化したものです。扇港と呼ばれた兵庫港と神戸港の双方が、あたかも扇を広げたような形になることから、二つの扇形が重なるように考えられました。『神戸開港五十年祭記念写真帖』という資料には、図案の考案者は京都の久江長兵衛とあり、この人は西陣織製造業を営んでいた人ですが、詳しいことはわかっていません。

同年九月、神戸築港起工式が行われました。これは神戸港を東洋の中心港となすべく、国威をかけて拡張しようという目的の事業です。大蔵大臣ほか多くの議員が招待され、式は華々しく執り行われました。この時も市内の小学校は式を記念して、錨山の東の山に市章の形の植林をして紙旗を飾り付け、山腹に大きな市章を作りました。これが市章山の始まりです。

みなとの祭りと夜の電飾

昭和八年十一月、第一回みなとの祭りが開催され、市内は祭の行事で賑わいました。菊の花で飾りつけた自動車の国際大行進には、市内在住の外国人も進んで参加、小中学校生徒三万人が団体運動の演技を披露します。ラグビー、ヨットレースなど、各種の競技会も開催されるなど、市民参加型の大イベントが行われました。夜は中央突堤で花火が打ち上げられ、神戸港周辺の電飾された建物、二つの山の錨、市章のマークは夜空に光り輝きました。その様子は『みなとの祭写真帖』に見ることができますが、当時の人たちは、イルミネーションを大きな興奮と驚きをもって見ていたことでしょう。この写真帳からは、その時の街や人びとのざわめきが伝わってくるようです。

以来、二つの山は、戦中戦後の一時期を除いて、毎年電飾されることとなりました。平成元年には、市制百周年を記念して市章山のさらに東、堂徳山に第三の電飾が設置されました。北前船の正面の形と側面の形、それにKOBEという文字の三つのデザインが、二十分おきに切り替わって光ります。輝くこれらの電飾は、神戸の夜景のシンボルとなっています。

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文化スポーツ局中央図書館総務課