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未収録作品編 〜幻の作品たち

―川西英さんとは

スケッチ中の川西英さん 内庭が作品「小春日和」にあるような日本家屋にお住まいで、日本座敷をアトリエにしていました。周辺には、西洋骨董、複製品ではありますが、シャガール、マチス、ピカソなどの作品を飾っていたそうです。そういう雰囲気の中で制作されたのが「神戸百景」です。神戸百景を手がけているとき、仕事場へ出入りするのは、ご家族では楢枝夫人だけでした。版木は2階に置かれていたそうです。また、隣接する東出郵便局には、郵便局長として長男信太郎さんが須磨から通っていたそうです。川西版画の異国情緒は、川西家に存在していた混交した文化があったからだと思うと森本さんはいいます。実際に会話すると、川西さんはおとなしく、自己主張の少ない人でもあったそうです。生前、小磯良平さんは、川西さんは、どちらかといえば趣味的な作家と評価していたそうです。若いころ、川西さんは絵描きになりたかったのです。しかし、小磯くんのようなきれいな線が引けないので絵描きになるのを諦めたと川西さんはおっしゃっていました。日本の木版画界に西洋の作風を持ち込んだのが、山本鼎さんでした。その山本鼎さんに感化されたと川西さん自身も語っていたといいます。

 川西作品の特徴といえば、なんといっても神戸の風物です。昭和初期に、浜甲子園にドイツのハーゲンベックサーカスが来日したことも、川西さんの作品に大きく影響しています。当時は、三男の祐三郎さんも一緒に行かれたそうです。そのときのエピソードについて、祐三郎さんご本人にお聞きしています。サーカスの馬をスケッチしようとしたが、場内を馬がぐるぐる回るため、いっこうに描き終えることができないでいると、父親の英さんが、おまえはずっと馬を目で追っているから描けんのやと、馬は必ず同じ場所に戻ってくるので、そのときの姿を見て覚えて、スケッチするのだよと教えてもらったと、祐三郎さんは語っていました。また大阪には、イタリアンオペラも来日していました。その影響も大きいそうです。余り体力もないときに1/3を描き直されたのには驚きを隠せない。一番の思い出は真冬の外国人墓地で、凍てつく寒さの中、スケッチの早さには驚いたと森本さんはいいます。

―編集者の立場として、神戸百景をやってよかったと思うこと

『神戸百景』制作当初(1953年)の図版 100名の名士に随想を書いてもらえたことです。地元の神戸新聞はもちろんのこと、朝日、毎日、読売などの全国紙が好意的な書評で宣伝してくれたお陰で予約が殺到し、1,500部はすぐに完売したそうです。画集は、大丸の書籍部、丸善、海文堂などに置いてもらったそうです。また、大丸に頼んで出版記念として原画の展覧会を開き、この会場でも画集は3日くらいで品切れとなったようです。森本さんは在庫を探したらしいのですが、既にどこにもなく、希望者には迷惑をかけたといいます。当初、画集は売れないだろうと予想し、県に200部、市に300部を買い取ってもらっていましたが、結果は嬉しい誤算だったようです。 また、作家への報酬について、常識的には質問できないのでしょうが、わたしが知りたかったことでもあり、これまで誰も聞いたことがないようなので、敢えて質問してみました。すると、この神戸百景で、川西英さんへの報酬はゼロだったそうです。それも画集を100部差し上げただけとか。これに対し川西英さんは、100名の名士から随想を頂いただけでも十分とおっしゃっていたとか。ここからも川西英さんの人となりがよくわかるような気がしました。

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