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記者資料提供(2023年7月20日)
文化スポーツ局文化財課
垂水区にある垂水日向遺跡で行っている発掘調査で、平安時代~鎌倉時代の建物群を検出しました。
その成果を一般公開します。
堀で囲まれた屋敷地内の北西部で発見された総柱の掘立柱建物3棟は、その規模や規格がそれぞれに異なり、配置も古代の居館に比べれば整然さを欠いている。その点では、典型的な中世の居館の景観が想起できる。この時代の武士などの居館を描いた絵巻物から類推する馬屋や芝小屋、器材を納める倉庫などが考えられ、これらは性格(機能)が異なる倉庫(蔵)であったと推測される。
幅4メートルほどの堀で囲まれた広大な敷地を有する屋敷地内には、15棟程度の建物が存在したと推定されることから、有力者の屋敷地であることが伺える。
神戸市内では、平安時代後期で同規模の堀で囲まれた屋敷地の事例は、兵庫区楠・荒田町遺跡で検出されているが、屋敷地の規模や屋敷地内の建物等の状況が分かる事例としては初めての貴重な発見となった。今後の調査の進展が期待される。
本遺跡に関してまず注意すべきは、その立地である。垂水の海岸部は海に面した南側に砂帯が、その内側には潟が形成されていた。海岸部の施設は、海水の影響が比較的少ない砂帯の上に造られるのが一般的である。尼崎南部の遺跡分布などにこの傾向は顕著に見られる。垂水の場合も海神社は砂丘上に位置している。しかし、本遺跡は安定した砂丘上ではなく、砂丘と安定した陸地の間にある潟に立地する。つまり、わざわざ低い湿地を選んでいる。このような場所を選んだ理由を考えることが、この遺跡の性格を考える上で重要であると考えられる。
今ひとつ注意すべきは、同時代の周辺遺跡との関係である。垂水小学校から出土した遺構は、池を伴い宴会で使われる京都系土師器が多く出土していることから、「ハレの場」であったと考えられる。このような施設と一体のものとして本遺跡の性格は考えられるべきであろう。
以上の諸点から考えると、倉庫と推測される建物跡が見られ、あえて低湿地を選んだ本遺跡は、海路を使って物資を出し入れする拠点であったと推測される。周囲にめぐらされた堀は、プールされた物資を守る役割を果たしていたのであろう。中央部の発掘が行われていないので、断定的なことは言えないが、文化財課が推定するように、垂水小学校に位置した「ハレの場」に対する、日常的な執務が行われる「ケの場」であったと考えられる。また、本遺跡の東側に位置する遺構も、同じような倉庫を伴う流通の拠点であったと推定され、山側、海側で機能を分けながら、複数の建物群が展開していた様子を想像することができる。
本遺跡の立地は、このような機能的な面から選択されたと考えられるが、派生する重要な問題がいくつかある。第一は、潟の開発技術の問題である。承和5年(1175)年頃、尼崎では京都の賀茂社の投資によって、砂州の後背地の潟を干拓し田地化する工事が企図されていることが知られる。この時期の潟開発の進展とその背景をなす自然環境の変化を考える上でも、本遺跡の立地は興味深い。さらに、開発に際して相応の労力と資金が投下されたことも推測される。
これと関連して第二の点として、本遺跡が12世紀中に放棄され、その後同じ場所が利用された形跡がないことをどう考えるかという問題がある。これは本遺跡最大の謎である。垂水から北上する名谷筋は転法輪寺などの古刹や中世の石造物が残され、豊かな農村と垂水を結ぶ幹線路であり、垂水には通時代的に海港的な機能を持つ施設があったと考えられる。その歴史の中で、本遺跡の意味を考えなくてはならない。この点でやはり注目すべきは、本遺跡が立地条件が決してよくない場所を開発したうえで、大きな規模の施設を構え、出土した輸入陶磁を扱うような場であったことである。これらを踏まえるなら、かつてあった海港的機能と一線を画す規模と機能を持った、新たな政治的な拠点として本遺跡は構築されたと考えるべきかもしれない。とすれば、その放棄はその路線が放棄されたことを意味する。ちょうど12世紀は東大寺領であった垂水荘をめぐる領有関係が転変し、国衙領になる時期でもあるし、平家領が東播磨西摂津に設定される時期でもある。この遺跡の担い手については、12世紀の政治状況と関連させて今後さらに検討していく必要がある。