公開資料 解説付き一覧

資料名湊川砲台正面図(写) (みなとがわほうだいしょうめんず)
解 説兵庫の町人たちによって、湊川崎に築造された掻揚砲台の正面図です。旧明親館が所蔵していたものを大正8年(1919)に謄写したものであることが記されています。
資料名湊町附近図(写) (みなとまちふきんず)
解 説兵庫津の東側の入口であった湊町の外側部分を描いた図で、下方が北側にあたります。往還(西国街道)筋には、「壱里塚」が記されるとともに、その「建家」と記載されており、町家が北側に伸長していた様が看取できます。おそらく、江戸時代後期の様を描いています。ただこの図は、その西側に拡がっていた耕地の形状と面積などを一筆ごとに克明に記していることからも、それを主題としていると考えるのが妥当でしょう。
資料名武庫菟原郡図 (写) (むこうはらぐんず)
解 説江戸時代頃の武庫郡と菟原郡の地図の一部です。現在の神戸市北区、西宮市の一部に相当します。画面中央の下端に摩耶山天上寺、上端には北区の小名田、右端には西宮市生瀬、左端には北区の衝原の地名があります。
資料名武庫連山海陸古覧 (むこれんざんかいりくこらん)
解 説秀岳晩年の作といわれており、現在の神戸空港上空あたりから北を眺めた図です。描かれているのは開港前の深江から須磨までの様子で、神戸や兵庫津の辺りは、特に家屋が密集しています。また、兵庫の港には多数の商船が描かれており、港町として現在の兵庫区を中心とした地域が繁栄していたことがわかります。
資料名明治初期神戸写真帳 (めいじしょきこうべしゃしんちょう)
解 説
資料名明治初期神戸附近写真帖 (めいじしょきこうべしゃしんちょう)
解 説明治時代に撮影された写真集。神戸を中心に、京都などの観光地が撮影されています。
資料名遊女町之図(写) (ゆうじょまちのず)
解 説描かれた位置関係から判断するに、明治元年(1868)福原遊郭設置のために、作成された絵図と考えられます。当初遊郭は、兵庫津の地方である字「古湊」の地に設けられていました。この図をみると、その敷地は「奥行六拾間、横幅七拾間、此坪数四千弐百坪」と記され、約13,860㎡の広さを計画していたことがわかります。南側には大門、その他三ヶ所に非常口がみられるとともに、その周囲には高塀と堀が設けられる計画であり、閉ざされた空間であったことが理解できます。また、大門の手前の道筋には、両側に商店街を設けることが示されています。なおこの遊郭は、鉄道敷設計画のため、明治4年(1871)に新福原に移設されました。
資料名夢野古図(写) (ゆめのこず)
解 説夢野村における耕地やため池の状況を図示した絵図です。道筋は朱線で、水系は水色で図示されています。同村に点在した各池の長さや樋に関する記載は詳細であり、この点に主題を置いて作成された図と考えられます。
資料名和田崎新田之図(写) (わださきしんでんのず)
解 説兵庫津の南側に拡がっていた地方(じかた)部分を中心に図示した概略図です。この地は「和田芝野」とも呼ばれ、江戸時代中期まで兵庫津と隣接する御崎村との間で境界が定まっていませんでした。東西でみると船番所のあった位置より「なけあけ道筋迄」四百六拾間(約840m)、南北では弐百三十五間(約430m)であったことがわかります。
資料名和田崎船見番所絵図(写) (わださきふなみばんしょえず)
解 説近世の兵庫津やその周辺には必ずといっていいほど描かれた船見番所の見取り図です。番所は和田岬の南端に設けられ、和田岬沖を航行する船を見張るための施設でした。小さな土間を併設していたことがわかります。
資料名和田之古覧 (わだのこらん)
解 説和田岬の沖から和田神社を中心にして、江戸時代後期の海岸の様子を描いています。山なみ、建物、舟、松、人物が写実的に表現されています。和田神社の東側には兵庫と神戸の港があるため多くの船が集まっています。西側には漁をする小舟とその沖を西方からやってくる舟がつながっています。
資料名和田之砲台上面之図(写) (わだのほうだいじょうめんのず)
解 説兵庫の町人たちによって、和田岬に築造された掻揚砲台の上面図です。旧明親館が所蔵していたものを、大正8年(1919)に謄写したものであることが記されています。
資料名和田之砲台上面之図(写) (わだのほうだいじょうめんのず)
解 説兵庫の町人たちによって、和田岬に築造された掻揚砲台の上面図です。旧明親館が所蔵していたものを、大正8年(1919)に謄写したものであることが記されています。
資料名和田岬附近ノ図(写) (わだみさきふきんのず)
解 説兵庫津地子方総代3名と地方年寄2名、そして東尻池村年寄代・百姓代2名の名前が連記されていることから、双方が帰属を巡って争った「和田山」の地に関する具体相を図示した絵図と考えられます。兵庫津、今和田新田、御崎村、東尻池村の耕地が図示された凡例に基づくと、和田山周辺の耕地は錯綜した状態であったことがわかります。