公開資料 解説付き一覧

資料名播州明石舞子濱之図 (ばんしゅうあかしまいこはまのず)
解 説舞子から西を望んだ街道の様子です。武士や町人、旅人が往来し、浜側には茶店が軒を連ね、休憩している人もいます。海には荷物を積んだ船が行き交い、その向こうには淡路島、小豆島も描かれています。
資料名播州明石舞子濱 続垂水名所五色塚図 (ばんしゅうあかしまいこはまぞくたるみめいしょごしきづかず)
解 説東に遊女塚の石塔、西に五色塚を大きく描いています。現在のJR線沿線付近を人馬が東西に往来しています。五色塚古墳に描いている白丸は葺石を黒丸は円筒あるいは朝顔形埴輪を表現しています。遊女塚の頂上の石塔は県下でも最大級の石塔ですが、最初に建てられた場所や由来はよくわかっていません。
資料名播州名所巡覧図絵 (ばんしゅうめいしょじゅんらんずえ)
解 説大阪から赤穂までの地名や旧跡の由来を書いた、当時の旅行案内です。名所には和歌や古典などが紹介されています。
資料名兵庫表大合戦之図 (ひょうごおもてだいかっせんのず)
解 説湊川の合戦で楠正成が会下山に陣をはっている様子が描かれています。
資料名兵庫勤番所絵図(写) (ひょうごきんばんしょえず)
解 説兵庫に置かれた勤番所の絵図です。明和6年(1769)の上知後、尼崎藩の兵庫陣屋を改築・縮小して使用したと思われます。兵庫と西宮の勤番所には飛騨高山代官所から地役人を地付同心として3名宛配置し、大坂町奉行所から与力・同心が1ヶ月ごとに交代で勤番所に詰めました。この図面から勤番与力・同心の詰所、地付同心の屋敷、船見番小屋などがあったことがわかります。
資料名兵庫港遊歩規定図 (ひょうごこうゆうほきていず)
解 説居留地に住む外国人は、旅行などで自由に行動する区域が制限されていました。ピンクの線より内側が、外国人が自由に移動できる区域です。横浜などでも同様に外国人が行動できる範囲は限定されていました。この区域を越える場合には「内地旅行免状」というパスポートのようなものが必要でしたが、最初の頃は厳しく制限されていました。特に京都から10里以内の区域は、外国人の立ち入りが禁止されていました。
資料名兵庫新町場之図 (ひょうごしんまちばのず)
解 説現在の神戸駅を中心とした明治時代初期の計画絵図面です。中央の赤い東西の線は旧西国街道です。3ヶ所の白い部分は、新たに土地を公有地化する予定地で、それぞれをつなぐ道路も計画されています。白い部分は北から海軍御用地、楠社造営地(湊川神社)、もう1ヶ所は何も書かれていませんが、明治19年(1886)から建設が始まり明治40年(1907)に廃止されるまでの間、明治天皇の弁天浜離宮が置かれていた場所を含んでいます。離宮は実際にはこの図面ほど広大ではありませんでしたが、計画案のひとつとしてこの絵図面がつくられたのかもしれません。
資料名兵庫津町之図(写) (ひょうごつまちのず)
解 説兵庫津の南濱の西側にあった「須佐入江」を図示し、それぞれの間数を注記していることから判断するに、その様相に主題をおいて描いた絵図と思われます。入江に描かれている草木は葦でしょうか。となると同地においては土砂が堆積し湿地化が進んでいたものと考えられますが、実態は不明です。
資料名兵庫本陣間取図(写) (ひょうごほんじんまどりず)
解 説神明町にあった兵庫本陣衣笠又兵衛家の間取り図です。本陣が置かれた神明町と隣接する小廣町には旅宿や料理屋などが多く、俗に旅籠町と呼ばれていました。本図では、それぞれの部屋に畳数が記されており、屋敷規模が推察されます。表御門から玄関を通り、奥に進むといくつかの部屋を経て上段の間に行き着きます。同家の間取り図はほかに近世後期の木版摺のものが知られていますが、敷地の形状や間取りに違いが確認できます。
資料名兵庫和田御崎和田神社全図 (ひょうごわだみさきわだじんじゃぜんず)
解 説和田神社を精密に描いた銅版画です。岬の先端に、元治元年(1864)に建設された和田岬砲台と明治4年(1871)完成した灯台が見えることから、明治以降に寺社観光の土産品として作られたものと思われます。
資料名兵神市街之図 (ひょうしんしがいのず)
解 説明治7年(1874)に開通した神戸―大阪間の鉄道によって神戸へ来る人のために、神戸の印刷所が作った地図です。旧湊川をはさんで西が兵庫、東が神戸の主な道路、建物が表示されています。居留地の区画図や、右上には相生橋(日本初の跨線橋)から各名所までの道程も書かれています。
資料名葺屋庄往還筋絵図(写) (ふきやのしょうおうかんすじえず)
解 説明和2年(1765)2月26日に巡見が行われた際、葺屋庄に属した街道筋の村落の掃除を行う持ち場の分担を記載した絵図です。街道筋に位置した脇浜村・筒井村・熊内村・中尾村・中村が分担して行ってることがわかります。
資料名福原鬢鑑 (ふくはらびんかがみ)
解 説延宝8年(1680)の須磨寺の開帳に参詣する人たちのための、和歌・俳諧発句入りの名所案内記です。神崎から西へ境川までの街道に沿って、名所旧跡を主として簡単な説明とその地にちなんだ古歌および俳諧発句をあげています。