空襲を生き抜いて

最終更新日:2023年8月29日

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空襲を生き抜いて 多鹿照代さん

1945年3月17日午前2時、突然の空襲警報。当時、電信電話兵庫分局の電話交換手として働いていた私は、宿直のため職場に居ました。
焼夷弾攻撃で、火の固まり、鉄の筒が落ちてきて、同僚5人と逃げ場を失いました。だんだん息が苦しくなる中、ふと、ラジオニュースで流れていた「もうだめだ、とその場に座り込んでしまった人は皆、そこで死んでいる。何が何でも逃げるんだ」という大阪空襲の体験話を思い出したのです。私は一人立ち上がり、外に飛び出し、熱風と火の粉が舞う中、防空頭巾をかぶり大きな防火水槽のそばで身を伏せていました。
夜が明け、職場に戻ろうとしましたが、門もなく、入り口も分からない。その後、兵隊さんから一緒に働いていた5人の同僚が見つかっていないことを聞かされました。外に出るときに、なぜ「外に逃げよう」の一言を皆に掛けられなかったのか、自分を許すことができず長い間苦しんできました。
あの頃は、生きていくことに必死で、怖い、辛いと思ったことはありません。たくさんの人が亡くなる中、多くの人に助けられながらここまで生きてこられたことに感謝しています。

(広報紙KOBE2014年8月号掲載)

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