親を悲しませない世の中を

最終更新日:2023年8月29日

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親を悲しませない世の中を 米倉澄子さん

私は神戸市灘区に産まれました。
戦争が始まった翌年の春に国民学校に入学し、少国民としての教育を受け、3年生で淡路島に学童集団疎開をすることになりました。
淡路島では、食べ物に大変苦労し、毎日が雑炊ばかりでした。白いご飯を食べたくて、夢に見るほどでした。
男の子は馬小屋から馬のエサを盗んで食べ、女の子は海へ行き、波打ち際に流れてくるワカメを食べました。私たちは栄養失調で塩分が欠乏していたので、海水をなめると体がカーッとなり活力が湧きました。
年が明け、4年生になると、淡路島にもB29が飛んでくるようになり、次は出石に再疎開することになりました。
6月2日、汽車で江原駅からトラックに乗りたどり着いた村のお寺は、四方を山に囲まれており、息苦しくなりました。こんな寂しいところで暮らすのか、と女の子たちが泣くと、先生に、「これから日本の国を背負っていく少国民が涙を見せてはだめだ!」と怒られ、私たちはここで国のために頑張らなければと決心をしました。
出石での生活は、ますます食べ物がなく、毎日近くの農家の畑から作物を取って、川の水で洗って大根を食べたりして飢えをしのいでいました。
次に、ノミ、シラミに悩まされたのです。女の子の頭の髪の毛にはいっぱいのシラミがわき、梳き櫛ですくと、パラパラとシラミが落ちてきます。服の縫い目にはシラミの卵が。それを親指の爪でつぶすのが日課でした。
今、毎日お風呂に入り、頭を洗います。シャワーで頭を流している時、いつも「幸せだなあ・・・あの時、この様に頭が洗えたらシラミもわかなかったのに・・・」とつくづく思います。毎日、お風呂に入れることの幸せをかみしめています。
3つ目に困ったこと、栄養失調と不潔、それにノミ、シラミに噛まれてできた吹き出物をかくと血と膿が出るのですが、それを拭く紙がありません。仕方なく、お寺の障子紙をやぶって拭きました。
ある日、6年生の男の子が農家の納屋からイモを盗んできました。それをみんなで生で食べました。
農家の人が怒ってきたので、先生が生徒を集め問い詰めましたが、誰も白状しません。その夜は、正座させられて眠らせなかったのです。
その翌日の夕方、先生に怒られた腹いせで男の子たちが神戸に帰ろうと一斉にお寺から脱走しました。
しかし結局、全員村の人たちの協力でお寺に連れ戻されました。
先生は泣きながら、「君たちが辛いのはよく分かる。先生も辛い。みんなが農家の畑を荒らすので、そのお詫びに、先生は自分の靴下を持って謝りに行った。だから、先生の靴下は無くなってしまった。」という話をし、その日から、先生と生徒に深い絆ができました。
8月15日、日本は戦争に負けました。
しかし、私たちは信じられません。少国民としての教育を受け、日本は神の国であると洗脳されていました。戦争に負けそうになっても、神風が吹いて日本は勝つと信じていました。
戦争は終わったと理解し、これで神戸に帰れると大喜びしましたが、なかなか帰ることができません。
10月26日、やっと神戸に帰ることができました。
神戸は焼け野原でした。我が家も焼け、焼け跡にはバラックが建っていました。戦後の苦しい生活が始まりました。ますます食糧難で、街には闇市が立ち並び、空襲で親を亡くした子どもたちがガード下で靴磨きをしていました。
私の叔父をはじめ、あの戦争で多くの若者がお国のために命を落としました。
戦争で、子を亡くした親御さんの嘆き悲しむ姿をいっぱい見てきました。あなた方を産んでくれたお母さんを悲しませるような世の中にならないよう、今の平和を守ってください。
戦争体験者がどんどん少なくなっています。私は、今、元気なうちに語り伝え、二度と戦争が起こらないことを願っています。

(2016年8月11日戦災関連資料展会場にて開催~神戸空襲を記録する会による特別企画~「戦争体験者のお話を聞く会」より)

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