川西英 ひととなり

川西英が生まれた明治27年前後の兵庫津(ひょうごつ)には、まだ江戸時代の情景や風俗がそこここに残っているとともに、開港後30年近くたち、兵庫津の東に設けられた外国人居留地を通じて異国情緒たっぷりでおしゃれな文物や風俗も浸透してきていた。

川西英の生家は、屋号を「淡路屋」と称し、代々津軽や北海道と交易をする「北前船」の廻船業と雑穀・海産物問屋を営み、兵庫の豪商の一つであったことはよく知られている。明治15年に発行された『豪商神兵湊の魁』(下図参照)には兵庫東出町(ひがしでまち)の川西善右衛門家が描かれている。広い間口の店先で客が忙しげに商談しており、折しも北海道からの船が着いたのであろうか、次から次と荷物が運び込まれ、蔵に収められている様子が活写されている。英は、この家で生まれ、商家の賑やかな雰囲気の中で育ったが、一歩外に出れば、外国人や彼らの行動をつぶさに見ることができ、彼らのもたらしたさまざまな文物に直接触れることができた。

とりわけ、川西英が好んだものは、サーカスだ。神戸におけるサーカス興行の歴史は古く、明治20年2月から3月にかけて神戸鉄道局構内の空地で、イタリアのチャリネ曲馬団が興行し、多数の見物客を集めたことが記録に残っている。川西英自身も、「神戸には外国の曲馬団がよくやってきた。チャリネと呼んでいた曲馬団は特等席のほとんどが外人で占められていて、その中にまじっていることも嬉しかったが、あの大天幕のなかにみなぎる異国情緒が、こどもごころに強く泌みこんでいる」(「川西英自選版画集・随想的解説」より)と述懐しているように、後年サーカスを題材にした版画が数多く制作され、川西英の重要な作品群を構成している。ドイツのハーゲンベックサーカスが来た時には、団長に制作したサーカスの版画を送り、お礼状が届けられている。

サーカスの画だけではなく、戦前制作された『神戸百景』も、戦後の『百景』も、そのおっとりとした画調と明るい色彩は、おそらく彼の育った雰囲気と環境からくるものであるとともに、海と山をもつ神戸の景色と明るさを写し取ったものであると思える。

晩年、川西英は自身のことをディレッタントであると表現している。ディレッタントという言葉は、学問や芸術などを趣味として愛好する人、素人芸術家を意味し、幾分軽侮的な意味で使われることが多いが、英の言う「ディレッタント」からは微塵もそれが感じられない。川西英の画ほど、彼の言葉通りディレッタントのよさが画面にあふれ、童心と清らかな通俗味と明快さに満ちたものはない。川西画のよさは、そのディレッタント性にあるのではないだろうか。

神戸大学名誉教授
神木 哲男

川西 英
『豪商神兵湊の魁』の絵図『豪商神兵湊の魁』の絵図

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