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BE KOBE神戸の近現代史

神戸港の発展と文化・スポーツの流入 (詳細)

「衣」文化 ~男女間の違いと、子どもの衣服への広まり~

開港により西洋の服飾が徐々に流入し、日本人の衣生活と服飾文化に大きな影響を及ぼすこととなった。最初にやってきた西洋人の多くが男性だったため、洋服や靴の着用など、洋装化の歴史は男性から始まる。明治時代には政府による欧化政策のもと、男性服においては高位・高官から洋服が積極的に採用され、上流階級のみならず、役人や教師が徐々に洋服を身に着けるようになった。代表的なものでは、シャツやベスト、ネクタイ、ズボンとともに着用するフロック・コートが男性用の昼間の礼装スタイルである。港町神戸においては、西洋から洋服に関する知識や技術がいち早く伝わり、次々と洋服を扱う商店や紳士服仕立業が栄えた。

しかし、女性服における洋装化はそれほど進まなかった。明治19年(1886)に神戸で初めての洋風の夜会が開催されると、夜会の流行に伴い、上流階級の女性たちからドレスが着用されるようになるものの、大多数の女性たちは従来の和服で生活をしていた。

むしろ、子どもたちの衣服においては変化が見られた。活発な生徒たちに対して、和服の非活動性や日本髪の衛生の問題が注目されるようになったことから、衣服の改良が求められるようになり、上下に分かれた衣服、腕まわりや足さばきの邪魔にならないように細身の袖や袴が採用され、洋装化が進んでいった。

「食」文化 ~神戸肉とパン・洋菓子~

西洋文化が流入した明治時代の神戸の食生活は、肉食の普及と共に、新しい食品としてのパンや洋菓子、牛乳、紅茶などが人々に浸透したことで洋風化がもたらされた。とりわけ、今日のハイカラな街・神戸の基礎は、居留地の食生活が広まったことで築かれていった。

近代化に伴う肉食の解禁は早々に各地に広がり、人々の食生活に大きな変化をもたらした。神戸でも居留地の発展と外国人の増加により牛肉の需要が増大すると、それに応えるために新たな食肉処理場が必要となった。明治元年(1868)~8年(1875)にかけ、旧生田川周辺などに複数の食肉処理場が設置され、外国人事業者だけでなく日本人経営の食肉処理事業が広がりをみせた。明治2年(1869)には神戸で最初のすき焼き店と言われている「関門月下亭」が元町通西の端に開業し、その後明治中期までに数軒の牛鍋屋が開店するなど、市民へと牛肉が普及していった。その影響は神戸市内にとどまらず、明治8年(1875)の郵便時事速報には神戸が肉食の盛んな地域として記載され、神戸肉の名声がたちまち全国へも広がっていった。

肉食の急速な普及に対し、パンと洋菓子の普及は、横浜や神戸などの開港場から始まり全国へと広がっていくが、長い時間を要した。明治初期には居留地の外国人ベーカリーによって製造が始まったものの、外国人以外の需要が少なく、日本人や神戸市民の間には広まらなかった。本格的な広がりを見せたのは明治30年代以降で、日清・日露戦争における軍用パン、ビスケットの需要増大などが契機となり製造が進んだ。明治30年(1897)には神戸凮月堂が元町に洋菓子店を開業し、神戸における本格的な洋菓子店の草分けとなった。

その後、大正時代以降、第一次世界大戦で、日本軍の捕虜になったパン職人で名古屋の敷島製パンの初代技師長として招かれたハインリッヒ・フロインドリーブと、関東大震災後横浜から神戸に移住した菓子職人のカール・ユーハイム、ロシア革命の亡命者のマカロフ・ゴンチャロフとフィヨドル・ドミトリー・モロゾフが神戸に定住し、パンや洋菓子が神戸に根付いたことで、戦後全国的に発展する基礎が築かれた。

「住」文化 ~公共建築と民間建築における洋風化の違い~

神戸では、居留地に建てられた純粋にヨーロッパ的な家屋だけでなく、北野地区のいわゆる異人館街など、居留地の外にも数多くの洋風建築が建てられた。行政により官庁や学校など公共建築の洋風化が進められた一方で、民間の住居建築の洋風化が進み始めるのは大正時代に入ってからのことであった。

神戸に洋風建築が多い一因として、明治初期に行政側が普及を積極的にリードしていた点がある。明治3年(1869)に設けられた工部省は、多くの外国人技術者を雇い入れて西洋風の建築に乗り出した。明治5年(1872)、兵庫県は「海岸家屋建築規則」を出し、それまで雑然と建てられていた家屋に規制を加えて、都市としての神戸の景観を整えようとし始めた。明治6年(1873)1月には建築に関する新たな布告を出し、今後家を建てる際に資力のあるものはなるべく西洋風の家を建てるよう奨励した。強制力を持たなかったが、民間でも洋風の要素を取り入れた建物が次々と建設されていった。

ただ、民間の建築、特に住居建築の場合は、居留地にあるような西洋建築をそのまま真似たものは意外と数が少なく、多くは和洋二つの要素を合わせもつ折衷的なものであった。例えば、基本的には伝統的和風建築ながら二階部分にガラス窓やベランダを配して洋風の雰囲気を主張したり、ほぼ完全な洋館ながら実は廊下で和風の母屋とつながっていたりという具合だった。

スポーツ・娯楽 ~居留地の在留外国人によるクラブ活動~

神戸在住の外国人たちにとって、スポーツや娯楽は異国での大きな楽しみのひとつであった。自転車や乗馬、玉突(ビリヤード)、クリケット、テニス、陸上競技、レガッタ(ボートレース)、フットボール、サッカー、ヨットなど、様々なスポーツが盛んにおこなわれ、神戸の人々は近代スポーツをいち早く取り入れてきたといえる。

神戸で初めての本格的なスポーツクラブとして誕生したのが、居留地で商館を開設していたA.C.シムにより明治3年9月23日(1870)に創設された神戸レガッタ&アスレチック・クラブ(KR&AC)である。スポーツ施設でありながら、体育館などは劇場として使用されたこともあり、「体育館劇場」、または「居留地劇場」などとも呼ばれ、スポーツだけでなく娯楽のメッカとしても重要な位置を占めた。明治10年(1877)、体育館新築に伴いレクリエーション・グラウンド(現・東遊園地)へ移転されると、内外人遊園地として外国人のみならず日本人も利用することができるようになり、観たいと思えばこうした公演を外国人と一緒に楽しむことができた。劇場や演劇人気は広まり、明治29年(1896)11月25日には、日本初の活動写真(キネトスコープ)が花隈の神港倶楽部で一般公開された。キネトスコープとは、現在のようにスクリーンに映像を投影するものではなく、一人一人が箱の中のフイルムをのぞき窓から見るものであった。

また、明治34年(1901)には、イギリス人貿易商A.H.グルームが友人らと六甲山上にゴルフ場を建設した。ゴルフ場は拡張され、明治36年(1903)5月24日、120名の会員を持つ日本最初のゴルフクラブである、神戸ゴルフ倶楽部も誕生した。

コラム記事

コラム1

神戸と近代西洋音楽

明治期から大正、昭和にかけて神戸に深いかかわりを持った3人の音楽家にまつわるエピソードをご紹介したい。

西洋音楽の伝統を取り入れながら、日本の古典を題材に音楽界を切り拓いた貴志康一(きしこういち)は、1909年に大阪で生まれ、甲南高等学校、ジュネーブ国立音楽院に学び、指揮者、作曲家として活躍した天才的な音楽家として知られる。28歳という若さで夭逝した彼の作品は、西洋文化と日本文化が見事なまでに溶け合い、瑞々しい感性で私達を魅了する。代表作の一つ「竹取物語」は、中間部に求婚者たちの姿を諧謔的に描きつつ、世にも美しく清らかなかぐや姫の心の中に秘められた深い哀しみをヴァイオリンの音色に乗せ情感豊かに奏でる、まぎれもない名曲である。のちに湯川秀樹博士のノーベル物理学賞受賞に際し、この曲が演奏されたことでも有名となった。彼は、現在の神戸市東灘区深江南町にあった「深江文化村」で、ロシア革命の混乱から逃れてきた音楽家をはじめとした多くの文化人との交流を深めた。現在、往時の文化村の面影を伝えるのは2邸のみとなったが、数々の文化人を輩出した「深江文化村」は、今なお“阪神間モダニズム”の佇まいを色濃く残している。

貴志康一と同時代の作曲家、大澤壽人(おおさわひさと)は時代の最先端をいく画期的な作品を数多く残した偉大な音楽家として語り継がなければならない。彼は1906年に神戸で生まれ、関西学院高等商業学部を卒業後、渡米し日本人として初めてボストン交響楽団を指揮した。古典的な作風の貴志に対して、大澤は洒脱なモダニズムに特徴があると言えようか。これはまさに「深江文化村」に集まる外国人音楽家から直接学んだ大澤の真骨頂である。また、神戸製鋼の旧社歌をはじめ、多くの団体歌を残している。1953年、47歳でこの世を去るまでに千近くの作品を残し、その遺品は生前に教鞭をとった神戸女学院に寄贈されている。

3人目は、アレッサンドロ・リゼッティ。1850年にイタリアで生まれ、19世紀末から20世紀初頭にかけて神戸外国人居留地を拠点に活躍した彼は、当時、神戸在住外国人の中で唯一の音楽家であった。西洋文化を日本国内に広める地として我が国の近代文化史に大きな足跡を残す舞台となった外国人居留地にあって、彼は「Rizzetti’s Band」(リゼッティ音楽隊)を結成し、晩餐会やダンスパーティに花を添える重要な役割を担った。そして毎週定例的に居留地海岸や遊園地などで”奏楽“を催し、多くの日本人音楽家の育成にも力を注いだ。また、六甲山系・宝塚に沸く炭酸泉「TANSAN」に、軽快なリズムと優美で親しみやすいメロディを併せ持ったポルカによる“CM曲”を創作し、商品を海外に広め、人気ブランドに育て上げる陰の立役者ともなった。炭酸水から迸る泡の快感を弾むような舞曲へと昇華させる霊感と技は、世界中の「TANSAN」愛飲家たちを小躍りさせたに違いない。彼は、1907年、神戸・万国病院で57歳の生涯を閉じた。葬儀の日、春日野墓地へと出棺する葬列を前に、リゼッティの死を悼んで葬送行進曲が演奏されたという。その後、神戸市立外国人墓地に改葬され、いま、再度山の緑豊かな山懐で静かに眠る。墓碑には「CHEF DE MUSIQUE」(楽長)の文字が刻まれている。

  • 2022年4月15日(金) 朝日新聞(夕刊)1面
  • 1897年5月1日 神戸又新日報
  • 1898年 KOBE DIRECTORY
  • 1907年9月12日 THE JAPAN WEEKLY CHRONICLE
  • 田井玲子『外国人居留地と神戸 』神戸新聞総合出版センター 2013年 79~80頁
  • 生島美紀子『天才作曲家 大澤壽人』みすず書房 2017年 6頁、44頁、135頁、556~563頁

コラム2

和菓子? 洋菓子? 神戸名物「瓦せんべい」

神戸におけるパンや洋菓子の普及は、日清・日露戦争や第一次世界大戦、ロシア革命が契機となったのは本編で述べたとおりだが、大正から昭和初頭にかけても洋菓子の製造高は少なかった。その理由として、神戸では現在でも名物として親しまれている「瓦せんべい」の需要が旺盛だった点が挙げられる。

「瓦せんべい」は、開港後、神戸ならではの素材を生かし小麦粉や砂糖、卵をふんだんに使用した、神戸の新しい菓子として生まれた。洋風の味覚でありながらも見た目は和風の菓子であり、和と洋の両方の側面を持つハイカラせんべいとして市民に人気となる。明治元年(1868)には菊水総本店、明治10年(1878)には紅花堂(現・本髙砂屋)などが創業したが、特に「瓦せんべい」を改良して高級菓子に仕立て上げたのが、明治6年(1873)創業の亀井堂の松井佐助である。松井佐助は製法や技術を改良しただけでなく、明治の国家主義高揚に合わせて楠公さんの菊水社紋などを図案化したことで、「瓦せんべい」を全国名産として知れ渡らせる一端を担った。

明治21年(1888)、の山陽鉄道の創業と、翌22年(1889)の東海道本線の開通、さらに山陽鉄道の延伸により、東海道本線との接続点である神戸駅の乗降客が急増し駅前は旅館や土産物屋がひしめくようになった。その影響で特に近畿ならびに神戸以西の旅行者の土産として「瓦せんべい」は人気を博し、大阪の「粟おこし」、京都の「八つ橋」と並んで、関西を代表する菓子に成長した。

コラム3

神戸市立外国人墓地

近代神戸のまちづくりや文化形成に大きな役割を果たした外国人たちが眠る外国人墓地は、再度公園・修法が原のすぐ北側に広がる、緑豊かな木々に包まれた約14ヘクタールの聖地である。

元々、外国人墓地は1867年(慶応3)、小野浜(現在の中央区浜辺通付近)に兵庫開港と同時に日本政府により設置された。さらに1899年(明治32)、春日野(現在の中央区籠池通4丁目付近)にも設置された。

しかし、両墓地がいっぱいになる中、1952年(昭和27)にまず「小野浜外国人墓地」を、また1961年(昭和36年)に「春日野外国人墓地」を移転統合して神戸市唯一の外国人墓地とした。この墓地には、明治以来日本とかかわりをもった外国人など世界60か国、約2,900名が埋葬され、異国での永遠の眠りについている。墓碑は宗教別に整然と配置され、遠く日本を離れた本国からも墓参の人が絶えない。2006年(平成19)には、再度公園や再度山永久植生保存地とともに、国指定の名勝として登録されている。

ウグイスやホトトギス、シジュウカラなどの鳴き声と風の囁きだけが聞こえる広大な森の聖地を歩くと・・・・造船など近代産業の発展に功績のあったE.H.ハンター、初代神戸港長のJ.マーシャル、外国人スポーツクラブKR&ACを創り近代スポーツの振興に尽くす一方、日本で最初のラムネをつくるなど多方面で活躍したA.C.シム・・・神戸の近代化に向けて共に歩んだ先人たちに、そっと手を合わせたくなる。

なお、この外国人墓地は、月に一度、市民に公開されている。

外国人墓地がある再度公園周辺へは様々なルートが整備されている。その一つ、布引の滝、布引貯水池畔から六甲山中に入る道は、新幹線・新神戸駅の真下からスタートし数分と経たないうちに、渓流の音と野鳥のさえずり、風に揺れる葉擦れだけが聞こえる、神戸を代表するハイキング道である。布引の滝では、滝壺に激しく流れ落ちる清冽な響きとともに、そこから散りばめられる細かな水しぶきに、だれしもがしばし時を忘れる。さらに高度を上げると、上空にてんとう虫のような“夢風船”(ロープウェイ)が往来する。そして、“神戸の奥入瀬”とも呼びたくなるような、春は新緑、秋は紅葉の小径を通り抜け、つづら折りを登りきると、布引貯水池である。1889年に市制が施行され急速に都市化が進んだ神戸市では、コレラ等の感染症が多発する中、飲料水の確保に向け上水道の敷設が急務となり、初代市長の鳴滝幸恭は布引貯水池の建設に尽力する。“水道市長”と言われた所以である。貯水池建設にあたっては、セメントなどの資材を運ぶトロッコの牽引に馬が使われたというから、今の時代からは想像もできないような苦労があったに違いない。冬には色鮮やかなオシドリが羽を休める森閑とした湖面に沿って歩を進めると、市ケ原にたどり着く。休日には多くの家族連れが飯盒炊爨やキャンプを楽しむ声がこだまする水辺だ。木橋を渡って道なりに登ると間もなく大龍寺の山門が目に入る。ここまで来ると、再度公園まであとわずか。大龍寺横の山道を回り込むと、修法が原池を取り囲む再度公園に到着する。その奥の外国人墓地の佇まいと相俟って、名勝地に相応しい見事な公園である。

コラム4

神戸の裏山登山史

雨が降ろうが寒かろうが、早朝から裏山に登り始め、山頂の神社に参拝したり、記帳所でサインをしたり、お茶屋さんで一服したり・・・こうした“毎日登山”が定着している大都市・神戸。六甲山は我が裏庭と思っておられる市民も多いことと思う。それほど、神戸市民と六甲・裏山登山の関係は密接だ。

神戸独特の裏山登山が定着していったのは、兵庫開港に伴って外国人居留地に集まった在留外国人の影響であった。明治28年(1895)には、A.H.グルームによって六甲山上三国池近辺に別荘が建てられ、六甲山開発が進められていくと、それと相前後して、オフィス出勤前の朝の運動として、裏山登山も行われるようになった。H.E.ドーントは、明治43年(1910)、登山会員を募集、大正4年(1915)には英文の登山雑誌「INAKA」を創刊し、登山思想の普及に努めた。こうした外国人による登山がきっかけとなり、六甲連山の各山筋で市民による毎日登山が始まった。今も、六甲登山道にアイスロード、シュラインロード、トゥエンティクロスといった英語名で親しまれている道が数多くあるのは、外国人登山の名残である。大正10年ごろになると、市民の裏山登山は空前の隆盛期を迎える。市民同好の登山会は再度山筋だけでも百数十団体に及んだと言われ、六甲連山の山筋のほとんどで早朝登山が行われた。

このころに誕生し、現在に至るまで存続する団体として、神戸ヒヨコ登山会がある。創立は大正11年(1922)10月5日で、令和4年(2022)に創立100周年を迎えた。当初、署名簿を再度山仁王門前の茶屋に設け、その後、摩耶山や高取山などに支部が設けられていった。現在は、旗振、高取、再度、布引、一王山、保久良、唐櫃の各支部に、合計500名を超える会員がいる。中には令和4年時点で26,000回以上登山した者もいるとのこと、単純計算で70年以上毎日欠かさず登っても達成できない、まさに“毎日登山”を象徴する回数である。

明治38年(1905)に阪神電車が開通、昭和2年(1927)阪急六甲駅から六甲山上まで六甲ドライブウェイが完成するなど、六甲山へのアクセスが良くなるとともに、山上のレクリエーション施設の整備も進んでいくと、近隣のみならず遠方からも六甲山を訪れるようになった。

一方、各山筋の裏山登山のみならず、六甲全山56kmを縦走する、いわゆる“全縦”も行われるようになっていく。記録に残る最初の全縦は、大正14年(1925)。直木重一郎をリーダーに須磨浦公園から宝塚までを14時間20分で走破し、当時の新聞にも大きく報道された。新田次郎著「孤高の人」の主人公、加藤文太郎も全縦を敢行し、日本を代表する登山家として成長していく。

そして、様々な登山団体が全縦を実施する中、昭和50年(1975)、神戸市主催「第1回六甲全山縦走大会」が始まった。当初は、参加資格を市内在住・在勤と限定したが、予想以上の応募者で、第2回大会以降、毎年複数回開催し、さらには昭和60年(1985)以降、市外からの参加も可能になると、北海道から沖縄まで全国各地からの参加者で溢れるなど、背山に六甲の山並を擁する神戸ならではの全国的なイベントとして定着していった。

また都心から近く、登山道へのアクセスに便利な新神戸駅には、登山支援拠点・トレイルステーション神戸が開設され、市内外の登山者が気軽により安全に登山を楽しむための取り組みも進められている。

今では、“毎日登山”を日課とする市民が1万人近くもいると言われる神戸市。緑滴る六甲の山々は、登山を通じて市民の健康と生活文化を育む、かけがえのない聖域であるといえよう。

  • 『新修神戸市史 生活文化編』 神戸市 2020年 522~535頁
  • 落合重信『神戸裏山登山史略』 神戸市レクリエーション協会 1963年
  • 『神戸ヒヨコ登山会会報 2022年7月号』 神戸ヒヨコ登山会 2022年
  • 『六甲全山縦走―25年のあゆみー』 神戸市 2000年

コラム5

神戸の文化に貢献した池長孟

池長孟(はじめ)(1891〜1955)は、神戸で生まれ育ち、神戸を愛し続けた南蛮美術作品の蒐集家として知られている。彼が神戸の文化に果たした貢献は計り知れない。そのコレクションや建築物、人的交流などを通して、彼の足跡を辿ってみよう。

池長孟は、生後間もなく兵庫津の旧家・池長家の養子となる。旧制神戸一中(現在の兵庫県立神戸高校)、京都帝国大学に学んだ彼は、若い頃より文化に強い関心を抱いていた。世界的な植物学者、牧野富太郎が集めた植物標本が経済的理由により散逸の危機に瀕するのを知るや、25歳の法学部生であった彼はその支援を申し出、兵庫・会下山に池長植物研究所を設け、国外への流出を防いだ。牧野富太郎は、明治から昭和にかけて独学で植物分類学の礎を築き、いまなお『牧野日本植物図鑑』が不朽の名著として愛され続けているが、彼の窮状を救ったのが、若き日の池長孟であったことは忘れてはならないであろう。当時の新聞に「篤志家は法科大学生 世界的植物学者牧野富太郎氏のため神戸の青年素封家池長孟氏の美挙 神戸に植物標本陳列所を設立せん」と称えられた。現在、兵庫・会下山小公園に研究所跡の碑が残る。

南蛮美術に目覚める契機となったのが、大正11年(1922)のアメリカ・ヨーロッパを巡る旅であった。ボストン美術館、大英博物館、ルーブル美術館など世界の名だたる美の殿堂を目にした彼の審美眼は研ぎ澄まされていく。この欧米旅行の帰途船上では、かのアインシュタイン博士との出会いもあった。彼らを乗せた「北野丸」は、同年11月17日、神戸港に入港している。

昭和2年(1927)、小川安一郎の設計により、南蛮趣味が貫かれ贅を尽くした私邸「紅塵荘」を野崎通(現・中央区)に建築する。今は、かつての玄関へと誘ったヒツジ一対の石像が往時の姿を偲ばせるのみであるが、白い外壁にスペイン風赤瓦、英国風食堂、中国風ホール、ステンドグラス、壁面のタペストリー等々、まさに豪華絢爛そのものの邸宅であった。交遊のあった文豪谷崎潤一郎の「細雪」にも紅塵荘近くと思われる病院が登場し、二人の深い縁を感じさせる。

約4500点にも及ぶ南蛮紅毛美術品のひとつの頂点をなす「泰西王侯騎馬図」を昭和7年(1932)に、さらに、教科書などでもお馴染みの「聖フランシスコ・ザヴィエル像」を昭和10年(1935)に蒐集。昭和13年(1938)には、これらを収蔵陳列する「私立池長美術館」を、紅塵荘と同じく小川安一郎の設計により建築し、「何人の力も借りず、一個人の意志を貫いて、南蛮美術の日本一の蒐集をなしとげた。これはおそらく世界的に見ても比類のない蒐集というべき」と評された。池長美術館開館式には、谷崎潤一郎、川西英、竹中郁、小磯良平、柳宗悦をはじめとして当時の日本を代表する文化人が顔を揃えた。建物は、外壁に白いモザイクタイルを貼り、明るくあっさりとした外観のモダニズム建築で、建物正面の南蛮船・扉の竜・植物などのモチーフ、階段踊り場の鹿など、館内外に美しい装飾が施され、都会的なアール・デコの粋を示し、壁面に海神のモザイク画や床のタイルなど、神戸の古きよき時代の面影を今に伝える名建築である。なお、美術館完成直後には阪神大水害が起こり、神戸のまちは大きな被害を被ったが、建物は奇跡的に無事であった。

その後、昭和19年(1944)、小磯良平画伯によって、池長孟の肖像画「池長美術館長像」が描かれる。美術館日記に「昭和時代の名画として後世に遺るべきものであろう」と記された如く、巨匠の手になる代表作のひとつがここに生まれた。

昭和20年(1945)の神戸大空襲では、美術館の周囲一帯が被災するも、美術館と紅塵荘は、再び奇跡的に難を逃れた。しかし、戦後、池長美術館はGHQに接収、軍政の調査・諜報・検察的機能を有するCICが置かれることとなり、再開のめどは立たなかった。さらに追い打ちをかけるように、巨額の財産税などがのしかかり、ついには昭和26年(1951)、蒐集品と建物は神戸市に委譲され、市立神戸美術館と名前を変えた。昭和40年(1965)には、市立南蛮美術館に改称、そして昭和57年(1982)、池長コレクションのすべてが旧居留地内の市立博物館に移されオープンすることとなった。旧・市立南蛮美術館の建物は、平成元年に市史編纂機能を有する「神戸市文書館」として開館し、その後、平成12年、神戸市景観形成重要建築物(現・神戸市指定景観資源)に指定された。なお、神戸市文書館の機能は、令和7年度に兵庫津の旧岡方倶楽部の地に移転し、(仮称)神戸市歴史公文書館へと引き継がれていく予定である。

池長孟が遺したものは、南蛮美術のみならず、次代に営々と引き継ぐべき神戸の文化に対する情熱であったと言えるだろう。

  • 「神戸市立南蛮美術館」パンフレット
  • 「神戸市文書館」パンフレット
  • 大山勝男『伝説のコレクター 池長孟の蒐集家魂』 2017年 アテネ出版社
  • 平野義昌『海という名の本屋が消えた(46)』 2017年 みなと元町タウンニュース