神戸市役所

神戸市トップへ

BE KOBE神戸の近現代史

神戸と難民たち (詳細)

ユダヤ難民と神戸

杉原千畝とユダヤ難民救命ビザ

ドイツでは、昭和8年(1933)にヒトラーが政権に就いて以降、ユダヤ人に対する迫害が行われていた。第二次世界大戦の開戦後は、ドイツ国内や占領地のユダヤ人は拘束され、強制収容所に送られた。こうして各地で難民となったユダヤ人にとって、西方から追撃するドイツ軍から逃れるためには、シベリア鉄道を経由して極東に向かうルートしか残されていなかった。

昭和15年(1940)7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃げてきた多くのユダヤ難民が、各国の領事館や大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソ連が各国にリトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、まだ業務を続けていた日本領事館に通過ビザを求めたユダヤ難民が殺到した。

こうした状況の中で、リトアニアの首都カウナスの日本領事代理であった杉原千畝(すぎはらちうね)は、ユダヤ難民に対して日本政府の許可なしに通過ビザを発給した。杉原は、昭和15年(1940)7月末から領事館閉鎖までの約1か月間に、主にポーランド系ユダヤ人の通過ビザを、日本政府・外務省の指示に抗って発給し続けた。このビザにより、大勢のユダヤ難民がヨーロッパからシベリア鉄道でウラジオストクに向かい、船で福井県・敦賀にたどり着いた。彼らの多くは、神戸のユダヤ協会などを頼って鉄道で神戸を目指し、少なくとも5,000名を超えるユダヤ難民が昭和15年(1940)~16年(1941)にかけて神戸に滞在したと考えられる。

ユダヤ難民と神戸市民との交流

ユダヤ難民が神戸で滞在した場所は、北野・山本地域(北野坂とトアロードに挟まれた地域)に集中している。これは、山本通1丁目にあったユダヤ協会が、ユダヤ難民に対して生活費や衣食住の手配・支給を行っており、ユダヤ難民の心の拠り所となっていたためである。

神戸に滞在したユダヤ難民と神戸市民との交流については、平成27年(2015)に神戸市が情報提供を呼びかけ、50件以上の情報が寄せられた。その中には「近所に滞在するユダヤ難民に、母親がエプロンにくるんだ物資を届けていたのを目撃した」というエピソードもあり、反ユダヤ主義の報道が広がりつつあった当時に、神戸市民とユダヤ難民との人間的な交流があったと推測される。

神戸に滞在したユダヤ難民のその後

昭和15年から16年にかけて神戸にやってきたユダヤ難民は取得したビザが通過ビザであったため、次の目的地のビザが手に入るまで神戸にとどまり、その後上海などの海外へと旅立って行った。この上海行きがユダヤ難民の自発的な決断ではなく、多くの場合兵庫県や日本政府の強制力が働いた、と言われる。また、日本は昭和15年(1940)9月に三国同盟を締結して以来、ナチスドイツの反ユダヤ主義政策を無視できず、ユダヤ人の在留条件が緩和されることはなくその後、昭和20年(1945)6月の空襲で神戸のシナゴーグが焼失し、大戦が終結するころには多くのユダヤ人が神戸を去っていた。

当時を物語る跡の多くは戦災によって失われてしまったが、様々な書籍等に描かれ、戦争の悲惨さや人道的な相互支援の大切さを今に伝えている。

コラム記事

コラム 1

ユダヤ難民に関する市民からの情報提供

平成27年の暮れに、神戸市が昭和15年(1940)・16年(1941)のユダヤ難民に関する情報提供を呼びかけたところ、50件以上の貴重な情報が市民から寄せられた。下記の表で、寄せられたエピソードの一部をおおよその時系列に沿って紹介する。

エピソード① 昭和15年(1940) 昭和16年(1941) 冬

灘の畑原市場の八百屋の裏で、二~三人の婦人が大根の葉っぱをもらっている姿が見かけられている。また、十分な衣服をまとっていなかったために、寒い日本での生活で霜焼けにより手が赤く腫れあがっている姿が目撃されている。

エピソード② 昭和16年(1941) 2月

ポーランド人のアルフレッド・ゾーバーマン弁護士、イレナ・ゾーバーマンの二人が山本通3丁目にあった「Attorney at Law」(弁護士)という看板を目にし、弁護士事務所を訪れた。その事務所の北側にあった書庫を住居とし、約1か月間滞在している。

※当時神戸ユダヤ協会から提供される施設はどの施設も満員状態であった。

エピソード③ 昭和16年 2月

プロテスタントの神戸ホーリネス教会の信者の人々が、りんご13箱を神戸ユダヤ協会に贈っている。また神戸ホーリネス教会の牧師の長女によると、ユダヤ難民たちが神戸を離れるのを港に見送りに出かけた際に、出立できることを喜び踊っている姿を見て、彼女たちもともに喜び見送ったという。

エピソード④ 昭和16年(1941) 夏

メノ・モーゼズ・ウオルデン、シーラ・ウオルデン、シェーファー・マックスの三人が、灘区の水道筋にあった食料品店にやってきた。情報提供者一家は、彼らを倉石通の実家に招き、手料理でもてなしたり浴衣を着た写真を撮ったりと歓待している。また、ウオルデンは上海経由でアメリカに行くと話していたという。

エピソード⑤ 昭和16年

現在の灘警察署の東の川向こうに、木造の家屋があり、そこにユダヤ難民が20名程滞在していた。当時9歳であった情報提供者は、実家が油屋をしており、母親が夕方エプロンにくるんだ物資を彼らに届けるのを目撃している。

エピソード⑥ 昭和16年

北野町1丁目の丘の上にある集合住宅に、ユダヤ難民の一家4人が約6か月住んでいた。姉パーラ・フランケルは、「私たちにはお金が全くなかったので、神戸ユダヤ協会から支給される手当はありがたかった。」と話している。また、当時14歳であった弟のバール・ショーは日本の少年と友達になるなど、地域の大人から子どもまで様々な人と交流があったことを手記に残している。

引き続き、皆様からの情報提供をよろしくお願いします。

  • 『神戸市史紀要 神戸の歴史』 第26号 神戸市 2017年 岩田隆義「神戸とユダヤ難民」

コラム 2

手塚漫画にみるロケ地探訪

手塚治虫が描いた、戦争を主題にした代表作『アドルフに告ぐ』(『週刊文春』連載)では、神戸の北野が重要な舞台の一つとなっており、作中には旧トーマス住宅(風見鶏の館)、萌黄の館(小林家住宅(旧シャープ住宅))、関西ユダヤ教(協)団、当時存在したクラブ・コンコルディアなどが登場する。また平成29年7月には、神戸ゆかりの美術館にて「特別展 手塚治虫 展」が開かれ、上記の北野に関する資料も展示された。

  • 「特別展 手塚治虫 展」チラシ 神戸ゆかりの美術館 2017年
  • 「特別展 手塚治虫 展」出品目録 神戸ゆかりの美術館 2017年