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BE KOBE神戸の近現代史

神戸と難民たち (詳細)

勝田銀次郎と陽明丸

陽明丸事件

大正3年(1914)7月、第一次世界大戦が勃発、ロシアは当初、イギリス・フランス等とともに連合国側に加わっていたが、大正6年(1917)にロシア革命が起きると内戦状態に陥った。

混乱を極めていた首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)の子どもたちの安全を確保するため、 4歳から20歳ぐらいまでの子どもたちと付き添いの婦人たち約800人がウラル地方に疎開。アメリカ赤十字社の保護のもとに滞在していたが、内戦が激しくなり、ウラジオストクまで逃げ延びて施設(コロニー)に約1年間保護されていた。しかし、ここも危険だと判断し、アメリカ赤十字社は海路でペトログラードへ帰すことを考えた。

この要請を引き受けたのが、神戸で海運業を営んでいる船主の中でもリーダー格の勝田銀次郎であった。

当時海運不況の最中にありながら、自社の貨物船「陽明丸」を改装して客室・病室・浴場などを整備し、この人命救助の事業を引き受けた。

陽明丸を提供した勝田と併せて、船長の茅原基治の貢献も大きかった。陽明丸の航海の概略は次の通りである。

大正9年(1920)7月13日にウラジオストクを出港~北海道・室蘭(寄港)~太平洋~サンフランシスコ(寄港)~パナマ運河~ニューヨーク(寄港)~大西洋~フランス・ブレスト(寄港)~バルト海~10月13日にフィンランド・コイビスト港(現ロシア・プリモルスク港)に到着。90日余りで実に地球の3分の2の大航海を成し遂げた。

乗船者は、子どもだけでなく付き添いの婦人、乗組員、赤十字社、各国兵士など1,000人を超える多国籍の人々だった。 

勝田銀次郎について

人道面で偉大な功績を残した陽明丸の船主勝田銀次郎は、どのような人物であったのか。

当時の日本はシベリアに多数の軍隊を残していた。アメリカ撤兵のあと、ロシア赤軍の勢いが増し、大正9年(1920)3月から5月にかけてアムール川河口で日本人731人を含む住民6,000人超が惨殺されるという大事件「尼港事件」が起こっている。そうした状況下で、敵国民を救助することなど通常あり得ず、また海運不況と戦っている海運界には、1,000人もの乗客を乗せて水雷の浮流する危険水域を航行するなど、博打のような計画に協力するものは一人もいなかった。

そのような中勝田の決断を促したのは、持ち前の義侠心や世話好きで何事にも真摯に取り組む性格ともいえるが、若き日に出会った恩師、東京英和学校(現在の青山学院大学)校長の本多庸一のキリスト教的人道主義の精神が人格形成に影響を与えたことも看過しえない。

勝田はその後、市会議員、国会議員を経て神戸市長を務め、神戸港の整備、阪神大水害からの復興など多くの功績を残している。

コラム記事

コラム

シベリア・ポーランドから孤児救出~神戸と人道支援

陽明丸が戦火を逃れた孤児救出の航海に出たほぼ同時期に、日本赤十字社もまた、難民となったシベリアのポーランド孤児救済活動にあたっていた。この救済活動は、大正9年(1920)、大正11年(1922)、と2次にわたって行われ、合わせて765人の子ども達が手厚い保護を受けた。このうち、第2次救済活動においては、ウラジオストクから敦賀に入り、大阪の宿舎で数週間を過ごした後、神戸港を出港して、イギリス・ロンドン経由でポーランドへと送り届けられた。

大正11年8月26日の神戸又新日報には、神戸港出港の姿を「祖国へ還るポーランド孤児  子供ながらにも別離の哀愁に感迫ってか、すすり泣きの声に咽ぶ 涙ぐましい抜錨の情景」と報じられている。

その後、苦楽をともにした共同生活同窓生によって「極東青年会」が結成され、記憶の継承がなされてきた。そして、60年の時を隔てて、昭和58年(1983)には多くの元シベリア孤児達が再来日を果たし、日本とポーランドの絆を深めた。平成7年(1995)1月17日、阪神・淡路大震災が発生すると、今度はポーランドが恩返しをしようと被災児童達をポーランドに招くプロジェクトが発起され、多くの企業や個人の支援の下、約30人の子ども達が神戸からポーランドに渡り、現地の子ども達と交流した。その10年後にも、日本とポーランドの文化交流を目的に数名が再渡航し、シベリア孤児の方と直接対面が果たされるなど、友好関係はさらに強固なものとなった。人道支援を風化させることなく語り継ぐことは、温かな思いやりを基盤とする新たな歴史の創出につながるということを、いま私達は改めて胸に刻んでおきたい。