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BE KOBE神戸の近現代史

神戸と難民たち (詳細)

エルトゥールル号の遭難事故と神戸

神戸と難民に関する歴史の中で、明治期に起こった出来事としてトルコ軍艦エルトゥールル号の遭難事故があげられる。

明治政府とトルコの交流

明治元年(1868)に誕生した明治政府は近代化と西洋化を推進するため、大規模な使節団を欧米各国へ派遣して、文明開化と富国強兵を進めていた。

明治19年(1886)、日本の皇族初の外国訪問として、明治天皇の叔父にあたる小松宮彰仁親王が欧米へ派遣され、明治20年(1887)にオスマン・トルコ帝国に立ち寄る。この時点で日本とトルコに国交はなかったにも関わらず、皇帝に謁見し予想を上回る厚遇を受けた。帰国後、報告を受けた天皇は感謝の礼状を送り、さらには大勲位菊花大綬章を皇帝に届けた。

これを受けた皇帝は、その返礼にと日本へ初めての親善使節団派遣を決定し、600人を超える人員を乗せた軍艦エルトゥールル号が、明治23年(1890)神戸を経て横浜に到着した。当時、不平等条約の締結など外国との関係に不満を抱いていた日本政府と国民にとっては、真の親善を目的としたエルトゥールル号の派遣は喜ばしいものであった。司令官オスマン・パシャは、明治天皇に謁見し、各地で様々な歓待を受け、両国の友好の礎を築くという大きな使命を果たした。

エルトゥールル号の遭難事故と神戸の果たした役割

エルトゥールル号が次の寄港地を目指して帰国の途についたのは、9月15日であったが、その翌日の9月16日、和歌山県東牟婁郡大島村の沖合を航海中に、折からの悪天候のため座礁し、沈没してしまう。この時、600人を超える乗組員の救助に当たったのは、大島村の村民たちであったが、一命を取りとめたのはわずかに69人。司令官オスマン・パシャも後に死亡が確認された。

この時、生存者のうち2人が、大島港に停泊中の汽船防長丸に乗り込んで神戸に向かい、知らせを受けた神戸からは兵庫県職員を乗せたドイツ軍艦ヴォルフ号が現地に向かった。さらに後に駆け付けた日本の軍艦八重山とともに生存者を搭乗させて、いずれも神戸に向かった。

政府は事故を重く受け止めて、当初は負傷者を東京へ搬送する計画だったが、当時の兵庫県知事林董(はやしただす)の判断があったようで、最終的には全員神戸にとどまることとなった。

神戸では、できたばかりの和田岬消毒所内停留所が病室と治療室に当てられ、県立神戸病院、日本赤十字社などの医師と看護師が治療に当たった。

神戸で手厚くもてなされた滞在中の様子は、神戸又新日報に記されている。神戸に通訳できる人がいたこと。宗教上の食事の配慮をしたこと。犠牲者の大施餓鬼が神戸で行われたこと。帰還にあたり、神戸の洋服店で服を新調し、生存者全員に渡されたことなどが刻々と記されている。

さらに新聞各社は大々的な義捐金の募集を行い、遭難事故への国民の関心は高まっていった。

生存者をどうしてトルコに送り届けるかについては、紆余曲折があった。トルコと親密な関係にあったロシアが生存者の搬送を日本政府に申し入れたが、日本人の手で送り届けるべきだという国民の世論に押される形で最終的には日本の軍艦2隻が10月11日に神戸を出港し、生存者69人をトルコまで搬送した。

大島島民の救助活動、神戸での治療と看護、そして日本政府が巨額を投じて軍艦を派遣して生存者を送り届けたこともあり、この事故は日本とトルコとの友好関係を象徴する出来事として語り継がれている。

その後の日本とトルコ

昭和55年(1980)、イランとイラクとの間に戦争が勃発した際は、トルコの計らいで、取り残された日本人をテヘラン空港からトルコ航空機にのせて無事に救出した。

平成11年(1999)のトルコ大地震の際は、早い段階から神戸市職員らが被災地へ赴き復興に貢献した。

平成23年(2011)の東日本大震災では、原発事故の危険性が報じられる中をトルコ救援隊は最後まで救援活動を続けた。

このようにエルトゥールル号事故はつらく悲しい出来事であったが、これを機に両国間には感謝の心と友情が芽生え、それは今も強い絆となっている。

コラム記事

コラム

神戸とトルコをつなぐ神戸市職員5人の国際親善活動

エルトゥールル号の遭難事故が発生してから約100年後に再び神戸とトルコをつなぐ出来事があった。

それは、平成11年(1999)8月17日にトルコを襲った大地震がきっかけとなる。

地震が発生した、早い段階から神戸市職員らが被災地へ赴き復興に貢献することから再び神戸とトルコの交流が深まった。

被災地での復旧復興活動を支援するために、トルコ政府の要請をうけて被災地へ神戸市・兵庫県の職員らがJICA(国際協力機構)の国際緊急援助専門家(兵庫県・神戸チーム)として平成11年(1999)8月27日から2週間にわたりトルコの被災地へ派遣されることとなった。神戸市は、阪神・淡路大震災で復旧活動に従事した5人を選び、「震災時に世界各国から頂いた支援に対するお礼につながる」として、まだ余震が続く中、現地へ飛び立った。地震発生からわずか10日後のことだった。

突然の要請を受けた彼らは、現地の少ない情報に不安を感じつつ、また言葉や文化に関する理解も乏しく、ましてや日本とトルコの友好の歴史についても当時は全く知らなかった。そんな状態で現地入りした時、トルコで出会った人々の親日ぶりにとても驚いたという。トルコではエルトゥールル号と日本については語り継がれて誰もが知っている話だったのだ。

被災地での活動は2週間、精力的に行われた。文化の違いを配慮しつつも阪神・淡路大震災の経験を基に、発生初期に対応すべきことを中心に、がれきの撤去方法、仮設住宅の取り組み、生活再建の給付制度などあらゆる分野にわたり現地関係者の質問に答え、被災者と対話した。急遽開催したセミナーには200人以上の市民が混乱の中にもかかわらず駆け付けた。

神戸とトルコの橋渡しを継続させたい・・・帰国後、渡航した市職員メンバーはトルコとの交流を草の根的に始めた。

まずは震災から3年後の平成14年(2002)8月、5人はトルコを再訪し復興状況を視察した。そして阪神・淡路大震災から10年の節目の平成17年(2005)には、トルコサッカーチームに所属する子どもを神戸に招き、親善試合を行う実行委員会を設立し、忙しい仕事の隙を縫って取り組んだ。さらに継続的に活動するために、平成18年(2006)に神戸・トルコ友好協会「トルコーベ」を立ち上げ、イベント等への参加を通じてトルコ文化の周知や国際親善に尽力した。

こうした地道な活動は、彼らが神戸市を定年退職してからも続けられ、今やトルコ政府関係者や大使などのアテンドをはじめ外交行事への出席など活動範囲は拡がっている。

悲しい出来事がきっかけではあるが、こうして神戸とトルコの親善活動が神戸市職員のボランティア活動により脈々とつながっていること。これは次代に伝えていきたい特筆すべきことである。

  • 神戸市チーム活動報告書「トルコ国地震災害復興支援神戸市チーム活動報告書(1999.8.27~9.9)」
  • 神戸・トルコサッカー交流大会記念写真集

神戸・トルコ友好協会「トルコーベ」代表(神戸市民文化振興財団専務理事)

古川厚夫さんから職員へメッセージ

普段の公務と離れた活動は、機会があれば迷わず参加してほしい。物事を頼まれるということは、あなたへの信頼の証であり、魅力ある人柄だからと受け止めてください。たくさんの出会いや違った価値観と接することで、やってよかったと思う日が必ずきます。