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BE KOBE神戸の近現代史

神戸市誕生 (詳細)

地方行政の確立が急務だった理由~神戸事件後から兵庫県の誕生まで

明治政府が最初に直面した外交事件である「神戸事件」後、政府は神戸の治安機構の確立を急いだ。この治安機構としての行政機構の確立は一般行政機構の前提としての意味が大きい。これまでの封建的な政治とは異なり、近代国家は市民生活に積極的に関与していくこととなる。例えば道一本をひく、学校一つ建設するにしても、市民の間に利害の対立を呼び起こす。対立があればそれを抑止する力が必要となる。そのため行政警察機関の整備がまず進められていった。

兵庫県においては、兵庫仮事務所は、慶応4年(1868)1月22日に兵庫鎮台、同年2月2日に兵庫裁判所、同年5月23日に兵庫県へと名称や県域はめまぐるしく変更していったが民生に関しては基本的に旧慣踏襲の方針がとられた。

戸籍法・地方三新法による行政システム形成

明治4年(1871)4月4日の戸籍法の発布を契機に、兵庫県はようやく旧慣踏襲に終止符を打ち、近代的地方行政の確立に向けての第一歩を踏み出した。

戸籍法を制定した政府は、単に租税・兵役その他の義務を課するためだけでなく、国民に適切な保護を与えるためにその台帳として戸籍の編製を急いだ。兵庫県では明治4年(1871)6月には早くも戸籍調査が開始された。神戸には10の戸籍区が設けられ、これが行政区へ改められていったのである。

行政区として再編された各区には公選区戸長や区会・県会といった公選民会が設けられ、それぞれに独自の公共的性格が与えられた。

さらに明治11年(1878)、郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則のいわゆる3新法が制定された。府県会規則に基づく兵庫県会が設置され、明治12年(1879)1月、従来の区が廃止されて代わりに1区33郡が設置された。その1区が神戸区であり、神戸と兵庫を連続させた後の神戸市の原型になる行政単位が形成された。

各郡区には官選で郡長・区長が任命され、歴代の神戸区長は武井正平、村野山人、渡辺弘、鳴滝幸恭が就任した。また区会も発足し、選挙による区会議員が選出された。区には徴税・徴兵・教育・訴願の処理・戸長の監督・官有林の管理などの事務が課せられた。

また町村に戸長役場と戸長が置かれ、神戸区においては神戸戸長役場(北長狭通4丁目)、仲町戸長役場(仲町通3丁目)、兵庫戸長役場(小物屋町)の3戸長役場が設置された。なお、この3戸町役場は、後述のとおり行政の効率化の世論を背景に、明治20年(1887)3月に廃止され、その事務は神戸区役所に吸収されることになる。

神戸市政の成立と時代背景

明治10年代後半になると、行政事務は次第に繁雑化、増大化していき、行政の肥大化の結果として、市民の側から「区吏の不便は人民の不便」との理由から寄付をしてでも区役所の新設を求める要求があがった。また「区役所と戸長役場との事務は果して如何なる相違あるかを考ふ可し。」と事務渋滞に対する不満から戸長役場廃止要求もあがった。こうして強力なリーダーシップのもとに合理的で強力な行政組織を造り上げる必要に迫られていった。

また当時は松方デフレ下において、もともと貧困者の流入によって膨張してきた都市であった神戸の貧困問題は明らかに深刻の度を増していった。その解決のためにも行政の強力なリーダーシップの下に公共事業の拡大を要求する世論が急速に高まっていった。産業革命に向けての日本経済の胎動期であったことも背景にあった。

政府は、明治21年(1888)市制町村制を公布し、さらに明治23年(1890)には府県郡制を公布し根本的な法の変更を行った。戦後、日本国憲法と地方自治法ができるまでの近代日本の地方制度の骨格をなすものであった。

神戸に適用された市制によって、神戸市は明治22年(1889)4月1日に誕生した。そして同年4月に第1回神戸市会議員選挙が行われ、神戸市最初の市会議員が誕生した。

当時の神戸市域は、神戸区に葺合村や荒田村が編入されて、人口13万5千人、予算規模5万円であった。市制当初の市役所は旧神戸区役所の庁舎であった。場所は東川崎町1丁目(改正により相生町1丁目)に置かれ、選挙により旧神戸区長であった鳴滝幸恭(なるたきゆききよ)が初代市長に就任した。

市長・助役などの選挙や俸給の決定、議事細則の決定、勧業・土木各常設委員会の設置など市行政の骨組みが確立され、明治22年度の予算が可決された。またその後の市制を占ううえで重要だったのは、水道の市営方針の決定と区会条例の制定であった。特に区会条例の制定により、伝統的に存在した葺合・神戸・湊西(そうさい)の3財産区の区会が作られた。

廃藩置県と行政区画の変遷

明治維新以降の行政管轄の変遷

現在の神戸市は、東は摂津国菟原(うはら)郡・有馬郡・八部(やたべ)郡、西は播磨国明石郡・美嚢郡の5郡にまたがっていた。このうち播磨国内の町村は明石藩領であり、八部郡域では幕府領(天領)・旗本領、菟原郡域では幕府領・尼崎藩領、有馬郡域では三田藩領・田安家領・幕府領が多かった。

明治維新により幕府領は新政府の行政機構である府県の管轄となっていき、市域においては兵庫鎮台から後の兵庫県(第1次)の管轄となった。さらには旗本領も年貢収納以外の統治業務は通達により県が行うこととなった。一方大名領は一部を除きそのまま存続した。

明治4年(1871)7月14日の廃藩置県により、藩が解体され、現在の神戸市域に所領を持つ3藩は一時的に政府直轄の県(尼崎県・明石県・三田県)となった。

明治22年(1889)の市制町村制による「行政町村」の成立

明治22年(1889)4月の市制町村制の施行にともない、神戸区に莵原郡葺合村と八部郡荒田村を併せて神戸市が誕生した。市の周辺では、連合町村戸長役場区域を基準として町村を合併し、町村規模を拡大する政策がとられた。これは、政府の行政事務を地域に分任させるため、行政的財政的基盤を確立するためのものであった。それらは、こうした政府の行政上の要請を契機として形成されたことから、「行政町村」と呼ばれるが、その多くは近世以来の組合村を単位としていた。

明治22年(1889)神戸市誕生以降の市域の変遷

明治22年(1889)4月1日神戸市が誕生したその後の市域は周辺の町村との合併により徐々に拡大したが、第二次世界大戦終戦時はまだ六甲山地の南側に限られていた。

戦後、人口過密の改善を図り神戸市をさらに発展させるために市域は急速に拡大していくことになる。

コラム記事

コラム

神戸市役所庁舎の変遷

初代庁舎

市制施行時の神戸市役所の建物は、旧制度下の神戸区役所の庁舎であった。庁舎は明治20年(1887)1月に建てられたもので、明治22年(1889)6月21日に開庁式を行った。そしてこの日が神戸市役所の開庁記念日となった。

場所:中央区東川崎町1丁目(明治28年の町名改正により相生町1丁目)

2代目庁舎

市制施行後の行政組織の拡大により庁舎が狭くなっていき、新庁舎の建築が提案されるようになった。そして、日露戦争後の好況の中、地方裁判所の東隣地に建設されることとなり、明治42年12月に落成式が行われた。煉瓦づくり3階建の構造で、新庁舎は当時建てられた県庁舎(現在の県公館)と似ていた。昭和20年(1945)まで本庁舎として用いられた。

場所:中央区橘通1丁目1、地方裁判所の東隣

新庁舎建設の構想と断念

明治末期から昭和の初めまでに市の事務は増え、行政組織は著しく拡大していた。大正14年には同じ敷地で増築はあったものの、市会議場の新設やさらなる市庁舎の増築については、当時は不況下でもありかなわなかった。その後、県立第一神戸高等女学校旧校舎敷地(中央区下山手通5丁目)が新庁舎の候補地にあがったが、敷地が取得できず断念となった。

庁舎は分散するしかなかった。昭和20年(1945)大戦末期には、元町分庁舎(三越の一部)・葺合分庁舎・室内分庁舎のほか水道部は川池国民学校、交通局は湊町に分散していた。さらには空襲による延焼を避けるために本庁舎2階にあった市会議場を取り壊した。

3代目庁舎

戦後、従来の本庁舎は戦災を免れたものの荒廃し、分散した庁舎を集約するなどの必要があったため、神戸市立第一高等女学校(兵庫区松本通1丁目1 現在の湊川中学校)および隣接の勧業館(現在の兵庫区役所)周辺に本庁を移した。昭和20年(1945)9月のことである。3代目庁舎は校舎を転用したものであったため不便であり、戦後さらに拡大する行政組織を収容するには狭く、地理的にも好適ではなかった。しかし、焦土と化した戦後の状況下では新庁舎を求めることは容易ではなく、昭和32年の移転前には市長部局12局のうち8局は分散していた状態であった。

4代目庁舎

新庁舎の早期着工が求められる中で、建設候補地は、東遊園地と湊川神社北に絞りこまれた。市会議員37人の紹介による請願が出されるなどして湊川神社北を推す声も多かったが、早期着工が可能として、昭和30年(1955)1月に東遊園地に決定した。東遊園地は明治維新の頃に外国人居留地に付設して開設された遊園地で、明治33年の条約改正で市域に編入され、市が管理していた。しかし土地は国有であったため区画整理の換地ではじめて庁舎敷地となった。

昭和32年(1957)4月に本館(旧2号館)および議事堂・別館が完成した。本庁舎は地上8階地下1階建てで、塔上には市章のネオンがついていた。朝、昼、夜には屋上から2キロ周囲にチャイムメロディが鳴り響いていた。議事堂は地上3階建て、庁舎北側には日本で最初の花時計が設置された。

その後行政組織の拡大に対応するため昭和41年(1966)に新庁舎西隣に第2庁舎(旧3号館)が建設され、さらに昭和52年(1977)に中央区江戸町に第3庁舎(現在はすでに売却された)を取得した。このようにして行政組織の拡大に対応していった。

現庁舎(1号館)

行政組織はその後も拡大し続け、市庁舎が狭あいになってきていたため、昭和54年(1979)、新庁舎の整備に備えて基金が設立された。建設候補地としては、現在地である議会跡地、国鉄湊川貨物駅跡地(現在のハーバーランド)、ポートアイランドの3候補地が挙げられたが最終的には現在地に決定した。地上30階、地下3階建ての新庁舎は、当時の神戸ではまだ少ない超高層ビルで、議会棟と行政部を併せ持った構造となった。また展望フロアの設置など市民に親しまれる庁舎となるよう考えられた。市制100周年の平成元年(1989)に完成し9月に竣工式が行われた。なお、新庁舎は1号館、従来の本庁舎、第2庁舎はそれぞれ2号館、3号館と改称された。

  • 『神戸市史第3集行政編』 185~188頁
  • 『新修神戸市史 行政編Ⅰ 市制のしくみ』 神戸市 1995年 284~298頁