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BE KOBE神戸の近現代史

生田川の付替えとフラワーロード (詳細)

1.旧生田川と新生田川

明治6年(1873)、旧生田川から現在の生田川への付替工事が行われた。工事は着工から3か月で完了し、残された旧生田川跡地には、幅十間(約18メートル)の道路(現在のフラワーロード)が建設された。東海道の大街道でも六間ほどという時代に、十間という前代未聞の大道路を建設したのは、加納宗七という紀州生まれの商人であった。

旧生田川は、布引川と苧川とが合流して現在のフラワーロードを流れる天井川で、その川幅は、明治5年(1872)には今の加納町交差点で約六十間(109メートル)あった。また、晴れの日が続けば水が一滴も流れないような状態であったが、ひとたび大雨が降れば氾濫するという川でもあった。そのことを大きく問題視したのが、生田川の西方低地に居留地を構える諸外国の公使である。公使たちは、新政府に対して生田川に堤防をつけることを再三にわたって要求する。しかし、生田川全域にわたって堤防を取り付けるには莫大な費用が必要なだけでなく、堤防を設置しても完全に防げるかどうかわからないという状況であった。そこで浮上したのが、生田川の付け替え案である。当時の外務大輔寺島宗則(陶蔵)や大蔵省の井上薫らが検分に訪れ、菟原郡熊内村字馬淵から同郡脇浜村地先字小野浜海岸まで、最短距離で通る現在の生田川へと川道をつけかえることを決定した。明治4年3月1日に新生田川路に標杭を立て、6日に立ち退き命令を発令、10日には工事が開始し、6月9日には竣工というものであった。総工費は三万六百七十二両であった。

2.フラワーロード

旧生田川跡地については、中道以南は外国人居留地の隣接地であるので、これを除外し、中道以北の4万1千7百余坪(約14ヘクタール)を入札売却に付することとなり、加納宗七とその娘婿の有本明(ありもとあきら)が五千五百十八両で落札した。加納宗七は、明治4年11月より地均工事に着手し、明治6年(1873)6月に竣工し、川敷中央に幅十間(約18メートル)の道路を1.6キロメートルの長さで敷設。他にも五本の横道を合計540メートル設置した。十間の大道路は、当時としては類を見ない広さであり、見物に来る人も多数現れ、神戸の名所となった。その後、中道以南の埋立地は、一部を税関用地、残部を兵庫県下の還禄士族に払い下げた。この中央道路は、神戸・葺合両部の境界となり、以西の土地は加納町と名付けられた。この中央道路が現在のフラワーロードであり、神戸の中心街区の一部を形作っている。

3.加納湾からみなとのもり公園へ

加納宗七のその他の事業として、加納湾の開削があげられる。六甲山系の山麓台地と海岸低地が長くのびた地形の神戸の港は、高潮に襲われやすいという特徴があった。明治4年(1871)の暴風雨では、汽船7隻が岸に打ち上げられ、和船5百隻あまりが破損するという災害に見舞われた。このような状況にもかかわらず、神戸港には風雨や高潮から木造和船を避難させる場所が無かった。そこで加納宗七は船留場の開削に着手。明治8年(1875)旧生田川東川尻小野浜に加納湾と呼ばれる船の避難港を完成させた。明治10年(1877)西南戦争が発生すると神戸は政府軍の海上輸送拠点となり、加納湾も大いに利用された。

加納湾は、明治17年(1884)に海軍省に買収されるまで運営される。買収後は海軍造船所となり、軍艦大和(明治建造)や軍艦赤城などが建造された。赤城については、後に海軍元帥となる東郷平八郎が監督し、現在も東郷平八郎が日夜利用していた神港倶楽部の井戸跡地には東郷井碑が残っている。その後、加納湾は大正4年(1915)に埋め立てられ、鉄道操車場敷地、臨港線神戸港駅を経て、現在はみなとのもり公園(神戸震災復興記念公園)として、市民の憩いの場になっている。

その他、宗七は布引道筋の桜並木の造設や学校建設支援など数々の社会事業を行なった後、明治20年5月5日(1897)肺炎によって逝去。享年61歳であった。宗七の銅像は今も中央区の東遊園地に残っている。

コラム記事

コラム

『維新の商人 加納宗七』

1.紀州の商人 加納宗七(かのうそうしち)

明治6年(1873)、生田川の付替工事によって生まれた旧生田川跡地に、幅10間(約18メートル)の道路(現在のフラワーロード)が建設された。東海道の大街道でも6間ほどという時代に、幅10間という前代未聞の大道路を建設したのは、加納宗七という紀州生まれの商人であった。いったい加納宗七とはどのような人物で、なぜ神戸で暮らしたのか。その足跡を辿っていく。

宗七は、文政10年(1827)紀州和歌山城下にて商人の子として生まれた。故郷で材木商を営んでいた宗七だったが、嘉永6年(1853)に黒船が来航。翌年には200年以上続いた鎖国体制が終了する。激動の時代となり、宗七は商人の身でありながらも国事に興味を持つ。紀州藩の志士たちと語りあう中でその思いは膨らみ続け、ついには同郷の志士、陸奥宗光(むつむねみつ)と勤皇の誓いを結ぶまでになる。また、仕事で京都に出向くかたわら、坂本龍馬や中島作太郎など他藩の志士とも交流、宗七は志士たちの間でも知られる存在となっていった。

2.激動の時代

慶応3年11月15日(1867)、土佐藩浪士の坂本龍馬と中岡慎太郎が京都の近江屋にて何者かに暗殺される。悲嘆に暮れる宗七や陸奥たちが竜馬暗殺の首謀者と目したのは、紀州藩士三浦休太郎(みうらきゅうたろう)であった。慶応3年12月7日(1868)、三浦を討つべく、宗七は陸奥宗光、大江卓(おおえたく)ら十数名と共に京都の料亭天満屋を襲撃する(天満屋事件)。なお、天満屋事件は京洛における新選組最後の戦いとも言われている。

天満屋では、三浦を護衛していた新選組幹部の斎藤一(さいとうはじめ)らと死闘を繰り広げるも、三浦を討つことは叶わず襲撃は失敗。宗七が逃亡先として選んだのが、奇しくも襲撃の日に開港を迎えた神戸であった。

宗七が神戸を逃亡先に選んだ理由としては、同じ商人であり、襲撃切り込み隊にも参加した竹中與三郎(たけなかよさぶろう)が神戸出身であったためと考えられている。なお、大江卓談話では、與三郎は襲撃の際に手首を斬り落されるなどの重傷を負ったとされている。宗七は名を惣七(そうしち)に変え、花隈町の百姓家に潜伏することになる。

しかし、その後も時勢は急展開をみせる。慶応3年12月9日(1868)には王政復古の大号令が発出され、慶応4年1月3日(1868)には鳥羽伏見の戦いが勃発。同10日に将軍徳川慶喜や兵庫奉行が江戸に撤収、神戸は無政府状態となる。翌日には神戸事件が発生し、居留地や神戸の港は外国兵たちに占拠されてしまった。混乱の極みの中、解決に奔走したのが、後の兵庫県知事となる伊藤博文(いとうひろぶみ)や、襲撃事件に参加していた陸奥宗光、大江卓らであった。時代の急激な変化により、宗七の立場は、お尋ね者から国事に尽くした勤王の商人へと変貌。堂々と名を名乗り、木材商として神戸外国事務役所の建築資材などを提供するようになる。さらに、宗七の木材店は兵庫県や大阪府の御用達となり、順調に事業を拡大させていった。

3.神戸の骨格を築く

明治2年(1869)には紀州藩が営む回漕会社の神戸支店の頭取並に就任。木材商と同時に回漕会社の運営も行うようになる。同年、陸奥宗光が兵庫県知事に就任。宗七は木材商として鉄道施設事業にもかかわるようになる。

続く明治4年、外国側より生田川氾濫による水害を防止するために堤防を改修してほしいと幾度も要望があったことも踏まえ、生田川の付替工事が決定。兵庫県主導の工事であったが、宗七も付け替えに協力を依頼される。その後は本編のとおり、神戸の骨格をつくりあげた一人となった。

  • 『神戸開港三十年史』 神戸市 明治31年5月6日発行 434~439頁 開港三十年記念会
  • 『再版神戸市史(本編総説)』 神戸市 昭和12年8月1日発行 134頁 
  • 『神戸市史(本編各説)』 昭和12年8月1日発行  471~473頁
  • 『加納宗七氏銅像建設竣工記念誌』 丹下良太郎 昭和9年8月1日発行 17~38頁
  • 『新修神戸市史 歴史編Ⅳ 近代・現代』 神戸市 1994年
  • 『街道をゆく21』 司馬遼太郎 平成26年11月28日発行 
  • 『草莽の港 神戸に名を刻んだ加納宗七伝』 松田裕之 平成26年10月26日発行
  • 『兵庫人物事典・中巻』 のじぎく文庫 昭和42年10月10日発行 31頁