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BE KOBE神戸の近現代史

外国人居留地の形成 (詳細)

神戸居留地の誕生

慶応3年4月13日(1867)、日本政府は諸外国の外交代表との間で「兵庫港並びに大坂に於て外国人居留地を定むる取極」を結んだ。

それに基づいて、当初、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の完成を目途に幕府は居留地の建設を開始した。居留地の範囲は、現在の地名でいうと、東はフラワーロード(旧生田川)、西は鯉川筋に囲まれた海岸沿いの25町余りである。それは本来開港場に指定されていた兵庫から、3.5キロメートル隔てた地であり、外国人と日本人の接触を極力回避しようとした幕府の配慮がうかがわれる。しかし、幕末の混乱期であり予定期限内に完成できなかったため、便宜の措置として、生田川以西、宇治川以東、山麓までを雑居地とした。居留地造成工事は、慶応4年6月26日(1868)にいたってようやく完成した。

居留地の設計にあたったのはイギリス人のハートである。ハートは以前に上海租界の建設などにあたった経験をもっていた。彼のプランに基づき、中央に幅90フィート(約20メートル)の南北路(京町通)が通され、さらに居留地を一巡する道路と、東西に2本、南北に4本の道路が通され、居留地全体は22街区、126区に分割された。海岸通にはグリーンベルト(緑地帯)とプロムナード(遊歩道)が設けられ、各道路には歩車道区別が施され、下水道、ガス灯などの施設も整備された。その結果神戸居留地は、最初から計画的に造られた、整然と整備された西欧的都市空間として誕生した。当時の町割りが今でも見られ、現在の「旧居留地」の美しい景観形成へと引き継がれていることがわかる。

明治4年4月17日(1871)の英字新聞『The Far East』は「神戸バンド」と題して神戸居留地の様子を次のように書いている。

「大阪の港は兵庫で、兵庫の外国人居留地は神戸である。まだ3年しか経っていないけれども、日本におけるすべての開港場のなかで、もっとも活気を呈している。すでに現在市民たちは激賞できるだけの事業や生活水準の向上を示している。それは、最初の段階において、横浜が持ち得なかった長所である。これは日本人たちによって気儘に計画されたものでなく、一人のヨーロッパ人の土木技師を測量の顧問にしたからである。その結果ほどよい広さと規則的な町割りが計画された。(略)われわれの同業者である"ザ・ジャパン・メール"は、その最近号で次のように言っている。"神戸はたしかに美しく、東洋における居留地として、もっともよく設計されている。そこには、中国や日本に似ていないものがある。私は神戸を長崎の美しさや、上海の富と比較しようとしているのではなく、そこにある広々とした清潔な街路、十分な歩道、美しい背後の丘や、湾内の輝くさざなみ、そして小ぎれいで心地のよい建築は、すべて目新しく、魅力のあるものなのである"」

居留地が造成されると、商館等の近代的建造物が建てられていった。木骨瓦葺漆喰塗りのものが全体のほぼ半数を占め、煉瓦造りがそれに次ぎ、木骨石造、木骨煉瓦造りもあった。横浜には日本人工匠による擬洋風建築も多くみられたが、神戸では最初から外国人建築家の手によって洋風建築群が次々と生み出されていったのが特徴であった。

外国人居留地の代表的建築物

旧神戸居留地十五番館(以下十五番館と呼ぶ)は、明治13年(或いは14年)に建設された。神戸市内に残る多くの洋館の中では、十五番館が最も古いものである。建築当初はアメリカ領事館として使用された。

建物は木造2階建、寄棟造で、2階の南面にはベランダを配している。外壁は、モルタル塗に目地を入れて石造風に見せており、下地が木骨煉瓦造と呼ぶ煉瓦積になっているのが特徴である。

コラム記事

コラム1

居留地と雑居地~神戸のまちの原型

神戸の外国人居留地の歴史を考える上で、居留地がどのように形成され、運営され、返還されたのかを見ていくことは大変重要である。ここに神戸の、そして日本の近現代史の特徴が凝縮されていると言っても過言ではないからである。

形成にあたって見逃せないのは“雑居地”の存在であろう。

1868年1月1日の兵庫開港までに外国人居留地の造成が間に合わず、東は旧生田川(現フラワーロード)から西は宇治川まで、南は海岸から北は山麓部までのエリアを“雑居地”として、日本人と外国人の雑居が認められ、そのくらしの中から寛容性に満ちた神戸独自の“ハイカラ”文化が育まれていった。洋菓子やビフカツ、独自の瓦せんべいなどが生活を彩り、深く根差していく。居留地と雑居地は、現在に至るまで最も神戸を象徴している一対の存在となっていった。

居留地で貿易などに携わる外国人は、見晴らしの良い雑居地に住み、休日には六甲登山や東遊園地でのスポーツを楽しんだ。そうした生活スタイルは、今の私達にしっかりと根を下ろしている。“明日のパン”を忘れず、毎日登山で体に新鮮な空気を取り込み、海と山の恵みに抱かれた生活を送る。神戸市民の原型をここに見出すことができるのではないだろうか。

運営面においては、「居留地会議」の存在が特筆される。治外法権が認められていた外国人居留地においては、警察や消防機能を含めてその管理運営に関する自治組織として「居留地会議」が設けられ、その執行機関の“居留地役所”である「行事局」が居留地38番に設置された。

一般に地域運営組織にあっては、適切なメンバー構成、持続可能な財源、そして地域住民のわがまちへの愛着がその重要要素としてあげられるが、まず会議メンバーは各国領事・居留民の間で選挙された行事3名・兵庫県知事とし、居留地住民の声を反映しやすく、かつ、各国と日本の行政サイドの意見も反映可能なバランスの取れた組織形態がとられた。また、財源は“居留地資金”が設けられ、居留地の競売代金の一部や地税等が充てられることとなり、これによって居留地内の道路や下水等が安定的かつ適切に維持管理されることとなった。さらに、地域住民の“わがまち愛”を象徴するのが、消防隊長を務めたA.C.シムであった。彼はボランティア消防隊の一員として、常にベッドサイドに消防隊の制服とヘルメットを置き、いざという時に真っ先に出動したという。わがまちを守るだけでなく、濃尾地震発生に際しては被災地に駆けつけ救援活動を行うなど、まさにボランティアの草分けとして活躍した。こうした優れた自治のしくみに基づく自主運営が、「東洋において最も良く設計されている」と称賛された神戸の居留地を支えた。

居留地は、明治32年(1899)7月17日、不平等条約の撤廃・改正により、日本に返還された。その返還式において、フランス領事フォサリュウは、居留地会議によって守られてきた居留地についてこう述べた。「30年前、居留地の引き渡しを受けた時、そこは正真正銘の砂浜であった。今、私達はそれを立派なまちに変えて日本に返還する」と。街並みだけでなく、居留地会議を核とした自治に育まれた、トラブルのない安心なくらしは神戸の居留地の大きな財産であった。ただし、居留地の永代借地権が解消されるのは、さらに40年以上の歳月を要した。

法治国家としての国力を認められた日本は、不平等条約の撤廃に成功し、欧米諸国の仲間入りを果たすが、その一方で、アジア諸国との関係において、近代化の影を大きく引きのばしていくこととなる。

  • 田井玲子『外国人居留地と神戸』 神戸新聞総合出版センター 2013年
  • 神戸外国人居留地研究会編『居留地の窓から 世界・アジアの中の近代神戸』 ジュンク堂書店 1999年