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へえ〜そうなんだ!

 

1.その昔、鹿児島にあった火山の噴火による火山灰が、神戸にも積った!

垂水区の日向遺跡では今から6300年前に鹿児島県の鬼界カルデラ火山の噴火の際に噴出した火山灰が発見されています。このことは火山灰の成分を分析して判明しました。

2.縄文土器なのに、縄文(縄目:なわめ)のない土器がある!

西日本の多くの縄文土器には、縄目のもようの無いものが多くあります。近畿地方で縄文を用いて土器に装飾を施すのは半分以下です。

3.弥生時代の土器なのに、縄文(縄目:なわめ)のある土器がある!

関東・東北地方では、弥生時代になってからも、一部は古墳時代前期まで縄文を用いた装飾を行っています。

4.石包丁って包丁じゃないの?

石包丁はその形からこのような名前が付けられていますが、米を収穫する時に使う稲穂を摘む道具です。いま、肉や野菜を切る包丁とは違うものです。弥生時代肉を切るのは打製の鋭い刃を持つ石器を使っていたと考えられています。

5.石器の材料って何種類もあるの?

石器の材料となる石は、割れたときに鋭い刃となる硬い石を使います、代表的なものは、黒曜石・サヌカイト・チャートなどです。近畿地方では縄文時代・弥生時代を通じほとんどはサヌカイトが使用され、縄文時代に少しチャートが使われる程度です。弥生時代には、99%サヌカイトが使われています。石包丁や石斧等の磨製石器の場合は、石包丁には薄く割れやすい粘板岩や緑色片岩、閃緑岩や輝緑岩などの重くて硬い石を使用するなど、その用途に応じた石をうまく使っています。

6.縄文土器と弥生土器ってここが違う!

縄文土器と弥生土器と簡単には区別できません。縄文土器といっても地域や時期によって千差万別ですし、弥生土器も同様です。弥生土器と縄文土器を区別するには、文様とか形、作り方、それが発見された地域などをよく調べて判別します。

7.土師器と須恵器ってここが違う!

須恵器と土師器はここが違う。須恵器は大陸から伝わった新しい技術で、登窯で大量生産された土器、灰色に硬く焼き占められています。土師器は縄文土器・弥生土器と同様に日本の伝統的な焼き方で作られたものです。褐色の軟質の土器で、それぞれの村で作られていたと考えられます。

8.縄文時代ってそんなに長いの!

縄文時代は今から13000年前から2500前までの10000年を越える歴史があると考えられています、弥生時代から現代までの2500年の5倍以上の歴史があるといえます。
たとえば、100年を1mとした場合、縄文時代の始まりは130m先、弥生時代は25mから17m先です。明治時代の始まりが1.4m先、昭和はたった80cm先です。こう考えると日本の農耕や近代化の時間が以外に短いと思いませんか。

9.日本最古の戦争は、弥生時代!?

中国にのこる『後漢書』や『魏志倭人伝』という本に、弥生時代の日本の各地で戦争があったことが記録されていることから、弥生時代に戦争が始まったことがわかります。考古学的には、弥生時代の中期に狩猟の道具であった石鏃が大型化し、多量に残ることや丘陵上に集落が出現することから、戦争があったと推定しています。縄文時代の道具には、武器と考えられる道具は無いため、戦争は無かったと考えられています。

10.なんで土器にはいろいろな形があるの?

弥生土器には色々な形のものがあります。米を貯蔵するための壺や煮炊きのための甕、食物を盛り付ける高杯などのように使う用途による違いがあるほか、時代によってその形が少しずつ変化しています。土器の形や模様は用途や時期、作られた地域によって異なっています。

11.弥生人ってお米ばかり食べていたの?

弥生人たちは、縄文時代からの伝統的な食料である海や川で取れる貝や魚、山の木の実や果実を採集し、狩によって猪や鹿などを捕り食糧としていました。弥生時代になって、これらの食糧に新たに米が加わったと考えられます。

12.ご近所付き合いのはじまりは、弥生時代?

人々が協力しながら生活をしていたのは、すでに旧石器時代からです。食糧を獲得するために、一緒に行動し、また縄文時代には、神々へ感謝する祈りの場所も、共同で作りました。

13.弥生人のおトイレはどこにあったの?

弥生時代のトイレは、考古学的にはまだ確認されていません。おそらく、家の周囲の林とか溝の近くとか、一定の場所がトイレとして利用されていたものと推定されます。

14.勾玉や管玉に、どうやって穴を開けたの?

勾玉や管玉の材料となった碧玉や硬玉は、とても硬い石です。これに穴をあけるのは、容易ではありません。石の錐を使い、硬くて細かい砂(金剛砂)と水をつけながら、根気よくあけたものと思われます。

15.古墳時代の馬は、超高級外車みたいなもの!

古墳時代に朝鮮半島から馬が伝わりました。当時、馬は高速の乗り物でした。放牧する場所も必要ですし、飼い方も渡来人に教えてもらう必要がありました。このように馬はとても高価な乗り物ですから、地域の有力者でないと飼えなかったと思われます。

16.古墳時代の馬は、短足だった!

古墳時代に入ってきた馬は、がっしりとした体躯の小柄な馬でした。住吉東古墳出土の埴輪馬をみると比較的足も短かったと思われます。現存する木曽馬やトカラ馬は、古墳時代に渡ってきた馬の特徴を引き継いでいます。

17.豪族の館はここが違う!

古墳時代の豪族の館は、敵の攻撃を防ぐため、周囲を堀や溝で区画し、その内側にさらに塀を設けています。長田区松野遺跡では、1900m2もある敷地の中に、建物は3棟あるだけです。豪族が住む家と倉庫、やぐらのような建物があり、大きな広場もあります。その広場では、民から集めた税金を点検し、争いごとの裁判をしたり、儀式をしたり、戦に出向くときに、兵士を整列させたりしたことが想定されます。このようなところが、一般農民の家と違う点です。

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