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西区の歴史 古代

最終更新日:2023年9月28日

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古代

国土を統一した大和の政権は、645年からの大化改新と律令の制定によって、強力な中央集権国家を築きあげました。

大化改新の詔で赤石(あかし)の櫛淵(くしぶち;須磨浦公園の一帯)が畿内の西限とされましたから、この地方は畿内のすぐ西はずれとなりました。律令制度の下ではこの西区の地域と今の垂水区にほぼ明石全域とを併せた地域が播磨国明石郡とされました。

この明石郡の郡衙は、従来、明石市内の藤江説・太寺(たいでら)説、西区の伊川谷惣社付近とする説などが唱えられてきましたが、近年発見された玉津町の吉田南遺跡は、その規模と出土品から郡衙跡だった可能性が高まっています。

平安時代の「倭名類聚鈔」という書物は全国の郡や里の名を記しており、播磨国明石郡には、葛江(ふじえ)・明石(あかし)・住吉(すみよし)・神戸(かんべ)・邑美(おうみ)・垂見(たるみ)・神戸(かんべ)という七つの里があったことがわかりますが、そのほとんどが海岸地帯にあり、西区域に置かれていたのはこのうちの一つの神戸の里くらいでした。同時代の「延喜式」には当時の全国の大きな神社名が記載されていて、明石郡には七社の名がみえますが、西区内の社としては平野町の春日神社と伊川谷町の惣社とがこれに含まれていると思われます。

このような西区の南部をかすめて古代の山陽道が東西にはしっていました。平安時代まで、都から来た山陽道は須磨までくると鉢伏山南麓の荒磯をさけて山間を迂回し、西進していました。その道筋は須磨から多井畑を経て塩屋に出、海辺を西に進み玉津町や岩岡の南方を通っていました。多井畑は山陽道の播磨国から首都圏畿内の摂津国への入口にあたるため、西方から都へ疫病を進入させないようにと疫神祓いが行われ、その祭場が現在の多井畑厄除八幡へと発展していったといいます。

また、岩岡町には「古今集」の歌に詠われ、「増鏡」に記された野中の清水だと伝えられる泉が残っています。当時の野中の清水がこの泉か西明石の旧清水村にあったのかは説の分かれるところですが、ともかく古代の東西交通の名残りです。

また、神出町から明石市大久保町にかけての丘陵地帯に平安時代以降の須恵器の窯跡が数多く発見されています。上記のような交通路や西明石の魚住の泊を経由した海上交通を通じて、そのような須恵器や瓦が搬出され、また、中央の文物がこの地に流入したのでしょう。

玉津町の日輪寺や農業用のため池である菩薩池、押部谷町の性海寺は、奈良時代に行基が開いた寺だと伝説していますが、平安時代になると、近江寺や太山寺、如意寺などの名刹が、それぞれ明石川・伊川・櫨谷川の谷の奥に築かれました。

このころから、海辺の地方だけでなく、川沿いの谷筋が開発されてゆき、平安時代には区の南部の新熊野社領田中庄、鎌倉時代には九条家領神戸庄などの荘園が経営されており、室町時代になると伊河庄・平野庄・黒田庄・押部庄などの荘園名が記録されています。

吉田南遺跡

野中清水『播州名所巡覧絵図』(享和3年)

太山寺『播州名所巡覧図絵』

神出古窯址群で焼かれた鬼瓦(平安時代・12C)

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