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下記の内容は、「西区誕生20周年記念誌」(2002年8月発行)に掲載されたものです。
神戸は大まかにいって3つの地域に分かれています。1つは大阪湾の海岸と六甲山地の間に東西にのびる旧市街地で、ここに東から西に東灘・灘・中央・兵庫・長田・須磨の6つの区があります。第2の地域は六甲山地の北に広がる北区域で、農村地帯のあちこちに巨大なニュータウンが広がっています。北区は神戸市のおよそ2分の1の面積を占めています。これら2つの地域は、歴史的には北区の淡河町をのぞくと、古くから摂津国の西端という共通の性格をもってきました。
これに対して、ここで述べる西区は垂水区とともに古代から播磨国の東端の明石郡に属していて、神戸市に合併するまでは明石の街と結びつきの強いところでした。神戸市の3つ目の地域というのは、この西・垂水区の部分です。中でも西区の地域は第二次世界大戦後に神戸市垂水区に編入された農村地帯でしたが、分区して西区ができたころから急速に住宅地が開発され、地下鉄が完成したことから大規模なニュータウン建設が進んでいるところです。
西区の地形を見ると、播州平野から東にのびてきた印南野の東端で、区の中央部を明石川が北から南に流れています。押部谷町に源をもつ明石川は、平野町・玉津町を流れて明石市に入り播磨灘に注いでいます。この流れに玉津町で東から2本の支流ー伊川と櫨谷川とが合流しています。この2つの支流の流域が伊川谷町と櫨谷町なのです。そして明石川の北西の台地の上に神出町と岩岡町があります。区の西には加古郡、北には三木市があります。
明石市西部の屏風が浦の海岸で発見された明石人は、旧石器時代の人骨だと考えられていますが、西区でも平野町上喰池や神出・岩岡で旧石器が採集されています。押部谷町の元住吉山や神出町金棒池など西区の各地で縄文時代の土器や石器が見つかっています。
今からおよそ2000年あまり前に、大陸から米づくりや金属器が伝えられ弥生時代が始まりました。明石川流域の低地は近畿地方で最も早く稲作文化が根づいたところです。玉津吉田遺跡や周辺からの出土品を吉田郷土館で見ることができます。玉津町片山、櫨谷町青谷、平野町大畑・繁田、押部谷町養田・畑田・栄など西区の低地に弥生時代の遺跡がたくさん発見されています。
やがて、古墳時代になると伊川谷町の夫婦塚や玉津の王塚などの大きな前方後円墳が築かれ、古墳時代の後期には明石川流域の低地を見おろす丘の上にたくさんの群衆墳が造られました。明石川流域のこのように発達した地域を『古事記』や『日本書紀』は明石国と呼んでいます。そこを支配した豪族は海岸部の水上交通とも関係が深く、明石国造と呼ばれ、王塚や五色塚古墳などを築いたものと思われます。垂水の海神社や押部谷の元住吉神社、区内にいくつかある宗賢神社(もとは海の神を祀る宗像神社だったと考えられる)などの存在は、この地方の豪族が瀬戸内海の海上交通と深くかかわっていたことを思わせます。また区の北部の押部谷から三木市にかけて、雄略天皇の即位に際して大和からここに逃れ住んで、のちに大和に帰って顕宗・仁賢天皇になったという弘計・億計の2人の皇子の伝説が伝わっています。三木市東部にあった縮見の屯倉とともに、国土統一の時代にこのあたりが大和の政権と深い関係があったことを物語っています。『播磨国風土記』は弘計・億計の2皇子の物語の中に「吉備の鉄の狭鍬持ち・・・」という歌を記しています。北の北部にいた忍海部(押部の語源)という豪族が中国山地で砂鉄を利用していた技術者たちと関係していたことや、鍛冶を仕事とした人々が信仰した天目一の神と関係がありそうな天一神社が押部谷にあることなどを考えると、区の北部には製鉄技術をもつ人々が古代にいたようです。
このような各地の豪族を従えて国土を統一した大和の政権は、645年からの大化改新を通じて律令によって全国を強力に支配する国家を築きあげました。
律令制度のもとでは、赤石の櫛淵(須磨浦公園一帯)が畿内(首都圏)の西端とされ、そのすぐ西側にある今の垂水区・西区・明石市の地域は播磨国明石郡となりました。この郡の郡役所の位置については、明石市内の藤江や太寺、西区の伊川谷惣社付近などいくつかの説がありますが、近年の発掘調査で玉津町の吉田南遺跡の地だったという意見が高まっています。平安時代前期の『倭名類聚鈔』という書物には全国の国や郡や里の名が記されていて、明石郡には葛江・明石・住吉・神戸・邑美・垂見・神戸という7つの里があったと書いています。ただそのほとんどが海岸部にあったようです。同じ時代の『延喜式』には全国の大きな神社の名が記されており、明石郡内に7つの神社が記録されていますが、西区では平野町の春日神社と伊川谷町の惣社がそれに当たると思われます。
このような西区の南部を都に続く山陽道が東西に走っていました。平安時代まで山陽道は須磨まで来ると、鉢伏山の南ふもとの荒磯をさけるために須磨の山の北を遠まわりして、多井畑を通って塩屋に出、垂水から西に進んで玉津や岩岡の南を通っていました。多井畑は山陽道が播磨国から畿内の摂津国への入り口に当たるために、西方から悪い病気が首都圏に入らぬようにと疫神(病いの神)のお祓いが行われたところで、その場所に現在の多井畑厄除八幡神社が祭られています。岩岡には『古今集』の歌や『増鏡』に描かれた野中の清水だと伝えられる泉があります。
また、神出町から明石市大久保町までの台地には平安時代から続いた須恵器の窯跡がたくさん見つかっています。須恵器は山陽道や、西明石の魚住ノ泊の港から各地に運び出され、また都や大陸からの文物が逆にこの地に流れ込んだことでしょう。玉津町の日輪寺や菩薩池というため池、押部谷町の性海寺などは奈良時代に行基によって築かれたと伝えており、平安時代になると近江寺や太山寺・如意寺などの立派な寺院が、明石川や伊川や櫨谷川の谷の奥に建てられました。川沿いの谷筋がこのころから開かれはじめ、平安時代には区の南に新熊野神社の田中庄、鎌倉時代には九条家の神戸庄などの荘園もありました。
12世紀後半に大きな権力をもった平清盛は神戸市兵庫区平野地方にあった福原庄を好み、その南にあった大輪田ノ泊を修築して中国との貿易を進めました。1180年6月、彼は福原に都を移しました。しかし、この年、東日本では源頼朝や源義仲が平氏に対して兵を挙げ、清盛は11月に都を京にもどさざるをえませんでした。翌年の春、清盛は死に、源義仲が京にむかって軍を進めたため、平氏は1183年に四国へと逃れて行きました。しかし上京した義仲は貴族たちと対立し、後白河法皇は鎌倉の頼朝に義仲を討つように命じました。頼朝は弟の範頼と義経を京に向かわせ義仲を攻撃させました。
この源氏の分裂を知った平氏は都を奪い返そうとして四国を発ち、兵庫に上陸して東の生田の森と西の須磨一ノ谷とに砦を設けて神戸の地を拠点にしました。
やがて義仲を滅ぼした義経たちは神戸の平氏を攻撃しようと、範頼は山陽道を下って生田の森に向かい、義経は遠く丹波から加古川流域に出、海辺まで南下して西から一ノ谷を攻めることになりました。これが1184年2月7日の一ノ谷の戦いです。
結局、平氏は亡んで源頼朝によって鎌倉幕府は開かれます。鎌倉時代には西区は一層開発が進み、経済が発展しました。交通も発達して、兵庫ノ津から鵯越を通って三木方面に至る道路が押部谷を横切り、明石川沿いには海辺と三木地方を結ぶ人の往き来もさかんになりました。物資の輸送や交易で、新しい土豪が力をたくわえました。花岡太郎や垂水左衛門繁昌らはこのあたりに勢力をもった新しい実力者たちで、時には古くからの荘園をおそうこともありました。近江寺や性海寺や太山寺などは、自衛のために増兵をもつようになりました。
14世紀になって後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとすると、1333年に西播磨の赤松円心が挙兵しました。天皇の子・護良親王が太山寺の増兵に赤松勢を応援するように命じた令旨が、今も太山寺に伝わっています。
幕府が滅亡して建武の新政が始まると、功績のあった赤松氏は播磨を支配し、西区もその支配を受けました。やがて、後醍醐天皇の政治に不満な武士たちにおされて、足利尊氏が挙兵し、1336年の湊川の戦いに勝って都に上り、2年後に征夷大将軍になって幕府を開きました。尊氏が立てた天皇と、吉野に逃れた後醍醐天皇によって、南北朝時代が始まりました。赤松氏は足利方に味方して勢力を拡大しました。これに対して南朝方の新田義貞一族の金谷兵庫助は、北区の丹生山明要寺を拠点にして西区の地域に勢力をのばし、近江寺や性海寺や太山寺を味方につけました。1338年赤松円心は明石市の和坂で金谷勢と戦い、翌年赤松則祐が三木の志染や雄岡山方面から進軍して、シブレ山や櫨谷城で金谷勢を破りました。赤松氏はやがて摂津もおさえ、幕府の中でも重い職について勢いをのばしました。室町時代の荘園として区内では伊河庄・平野庄・黒田庄・押部庄などの名が記録されています。赤松氏はやがて将軍と対立して滅ぼされてしまい、但馬の山名宗全が播磨の守護も兼ねて山陽道に進出しました。山名氏は細川氏と対立して1467年に応仁の乱を起こしましたが、以後、幕府が弱体化して各地で実力者が勢力争いをくり返し、群雄割拠の戦国時代に入りました。西区では福中城(平野町)の間島氏、枝吉城(玉津町)の明石氏、櫨谷城の衣笠氏などが勢力を競っていました。衣笠氏は1527年には12代将軍足利義晴を櫨谷城に招きました。16世紀半ばになると三好長慶が主君の細川氏に代わって畿内を支配し、1554年に摂津から播磨に侵入して三木・櫨谷・福中・枝吉の城もおさえました。しかし長慶が死ぬと部下の松永久秀が権力をにぎりました。巻き返しをはかった三好勢は1566年に松永方の滝山城(新神戸駅の北の山城)を攻撃しましたが、この三好勢の中に明石・間島・衣笠氏も加わっています。
1568年に尾張出身の織田信長が上京して畿内をおさえ、三好勢が追い出されるころ、東播磨では三木の別所氏が勢力をのばし、西区の豪族や寺院も別所氏の配下に入りました。この別所氏が中国地方の毛利氏と結んで信長にさからったため、信長は羽柴秀吉に三木城攻撃を命じました。別所と結んでいたこの地方の勢力も秀吉の攻撃を受け、北区の丹生山明要寺・石峯寺・淡河城が攻め落とされ、近江寺・如意寺・最明寺なども焼かれたと伝えられています。このような混乱の中で、農民たちも生活を守るために結集し、たくさんの村ができました。合併前に大字といっていたものが、ほぼこのころ成立した村だと考えていいでしょう。人々は村ごとに鎮守の神社を祭り、団結を強めました。
秀吉は明石郡を部下のキリシタン大名高山右近に治めさせました。右近は枝吉城に入り、1585年には城を明石川の川口西方に移して船上城を築きました。2年後に西区の地方は秀吉の直轄領になりました。信長の死後、天下を統一した豊臣秀吉は検地や刀狩りを行うとともに、伊川谷の白川村と布施畑村の間、塩屋川沿いの多井畑村と下畑村の間などで摂津と播磨の国境を決めなおしました。
秀吉死後の関ヶ原の戦いの後、播磨は姫路城主・池田輝政の領地となりました。やがて明石郡は小笠原忠真の領地とされ、忠真は船上から城を明石川の東の丘の上、今の明石城に移築しました。こうして明石藩ができ、西区地域は明治の廃藩置県まで明石藩の支配を受けるわけです。歴代の藩主は表のとおりです。
江戸時代の明石藩主
17世紀後半まで親藩や譜代の大名が入れかわり藩主になりましたが、1682年からは福井県の大野から代わって来た松平家が明治まで明石藩を治めました。江戸時代の前半には全国でさかんに新田開発が行われましたが、この地方でも神出や岩岡の台地、伊川谷の漆山などに新田の村々ができました。1659年に藩主になった松平日向守信之は熱心に開発や農業の振興をすすめたといい、彼の死後に農民たちは信之を供養する石塔などを建て、それらは神出の最明寺や漆山、垂水区霞ヶ丘、明石市の大久保町森田、鳥羽円通寺、魚住町清水などにあって、今でも「日向さん」とよばれて大切に守られています。台地の上の新田は畑が中心でしたが、岩岡町では1691年に藩主・松平直明のすすめで煙草栽培が始められ、これは赤坂煙草とよばれて藩の経済をもうるおしました。ここでは1900年(明治33年)にアメリカから品種や技術をうけ入れて栽培を続け、日本の近代タバコ栽培発祥地とされています。
江戸時代には農村の経済も発展し、農民文化が成長してきましたが、西区では特に能の上演が興味ぶかいものでした。稲刈りのあとの秋祭りでは村の鎮守でいろいろな芸能が神に奉納されました。そのような時に芝居を上演する場が農村歌舞伎舞台で、兵庫県は全国でも指おりの農村歌舞伎舞台をもつ県なのです。北区山田町下谷上の舞台は国の重要文化財になっています。ところが西区の村の鎮守の境内には能の舞台がたくさんありました。全国的にも農村舞台は歌舞伎舞台がふつうなのですが、加古川流域と明石川流域の村々には能の舞台が多く、めずらしい地域なのです。櫨谷町・平野町・玉津町・神出町で5つの能舞台が残っています。また、寺院ではお正月や節分のころに追儺の鬼踊りが多く続けられています。
幕末の世の中の動揺は西区の農村地帯にも影響しました。1858年の日米修好通商条約によって兵庫の開港が定められ、その東の神戸村に外国人居留地の建設が決まりました。やがて関東の開港場・横浜近くで大名行列の武士と居留地の外国人との衝突、つまり生麦事件がおこりました。幕府は神戸で同じような事がおこらぬようにと、大名行列のための西国街道のバイパス建設を決定し、東灘区の石屋川の土手から街道と別れて六甲山地を西に進み、明石市大蔵谷でふたたび街道に合流する道路「徳川道」が造られました。徳川道は西区と垂水区の境の丘の上から漆山を通って大蔵谷におりていました。
明治維新の後、西区の地域は1871年(明治4年)7月の廃藩置県で明石県とされ、同年11月には西の姫路県に吸収され、数日後に飾磨県と改められました。飾磨県は1876年(明治9年)の府県制再編で東の兵庫県に合併され、今に至っています。そして1889年(明治22年)に市制町村制が実施されて、江戸時代のたくさんの村々は表のような7つの村にまとめられました。7か村の明治以降の人口の変化は、地域の発展を物語っています。
※上段は人口、()内は戸数
伊川谷 | 櫨谷 | 押部谷 | 平野 | 玉津 | 神出 | 岩岡 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
明治38年 | 4,295 (694) |
2,423 (398) |
3,765 (604) |
3,122 (483) |
3,600 (627) |
4,429 (770) |
3,336 (540) |
大正9年 | 4,123 (722) |
2,404 (418) |
3,536* (675) |
3,114 (550) |
5,153 (958) |
4,915 (896) |
3,720 (656) |
昭和5年 | 4,257 (755) |
2,477 (419) |
3,505 (657) |
2,158 (550) |
5,727 (1,089) |
5,081 (948) |
3,998 (686) |
昭和15年 | 4,362 (1,192)** |
2,451 (424) |
3,443 (649) |
3,173 (577) |
6,879 (1,248) |
5,129 (962) |
4,339 (735) |
昭和25年 | 5,444 (1,004) |
3,117 (573) |
4,810 (927) |
4,537 (863) |
10,017 (2,055) |
6,698 (1,271) |
5,618 (1,015) |
昭和35年 | 5,120 (951) |
2,870 (538) |
4,987 (936) |
4,278 (819) |
11,166 (2,390) |
6,463 (1,233) |
5,615 (1,082) |
昭和45年 | 7,448 (1,677) |
2,873 (618) |
6,468 (1,416) |
4,306 (930) |
12,162 (3,024) |
7,335 (1,528) |
5,911 (1,227) |
昭和55年 | 14,696 (3,658) |
2,963 (736) |
23,039 (5,999) |
4,325 (998) |
26,068 (7,579) |
8,369 (1,831) |
7,482 (1,695) |
平成4年 | 47,388 (16,839) |
30,781 (8,707) |
30,400 (8,735) |
13,576 (3,773) |
33,810 (10,668) |
8,471 (1,901) |
11,307 (2,839) |
平成12年 | 61,206 (24,519) |
54,743 (17,276) |
32,395 (10,484) |
23,172 (6,865) |
40,873 (14,655) |
8,682 (2,007) |
14,687 (4,442) |
面積 (平方km) |
31.05 | 21.50 | 29.52 | 16.17 | 8.66 | 19.88 | 11.48 |
(*は1921年(大正10年)の数字、**は792か)
7つの村々は1947年(昭和22年)3月に神戸市に合併して垂水区に編入されました。上の人口の変化を見ると、明治以降、国道175号が作られ神戸電鉄三木線がついて明石や神戸や三木との交通が発達しても、1965年(昭和40年)ごろまでは全体としてのどかな農村地帯だったことがうかがえます。しかし、1970年(昭和45年)の第2神明道路や1972年(昭和47年)の市営地下鉄西神線の建設、1972年(昭和47年)からの西神ニュータウンの本格的建設で、この地方が急速に発達していることがわかります。
1982年(昭和57年)8月、西区は9万人ほどの人口で垂水区から分かれて独立した区になりました。その直前の3月に糀台・狩場台あわせて370戸でスタートした西神ニュータウンは、現在では13,318世帯。1985年(昭和60年)3月に入居が始まった神戸学園研究都市も現在では5,226世帯です。そのほか1993年(平成5年)からは西神南ニュータウンも建設されて、新しい生活が始まっています。1985年(昭和60年)3月に学園都市まで開通した市営地下鉄は、1987年(62年)3月には西神中央駅まで完成し、区ができて5年目には人口は中央区より多くなり、1990年(平成2年)には15万人をこえました。1991年(平成3年)2月には西警察署が移転し、6月には区役所の西神中央サービスコーナーが開かれ、生活環境もしだいに整えられてきています。以前から住民に対する自治会館も各地に建てられてきました。
また、西区は古くからの農村地帯とニュータウンの住宅地というほかに、学園都市という顔ももっています。1986年(昭和61年)の神戸市立外国語大学を初めとして、1988年(63年)には流通科学大学、1989年(平成元年)には神戸芸術工科大学、同2年には神戸工業高等専門学校と県立神戸商科大学がそれぞれ移転・開学しましたし、以前から伊川谷には神戸学院大学がありました。
1984年(昭和59年)にオープンし、神戸ワインで知られる農業公園や、1991年(平成3年)に開設された埋蔵文化財センターも西区の新しい個性です。
この20年の発展の間には1995年(平成7年)の阪神淡路大震災のような不幸なできごともありました。震災では西区は全体として、甚大な被害を受けた神戸の旧市街地にくらべると被害は軽く、旧市街地からの避難の人々をたくさん受け入れることができました。
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