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灘の酒造業と「柴田家文書」
神戸市文書館所蔵の2万点を超える「柴田家文書」は、
柴 田 家 と 大 名 貸 (執筆:河野 未央氏)
【概説部分】柴田家の経営―全体像を探るために― 柴田家(屋号:柴屋)は、菟原郡新在家村(現灘区新在家南町)で、
元文元年(一七三六)酒造業を創始して以来、昭和四年(一九二九)廃業まで約二〇〇年間、同地で代々酒造業を営んできました。
(「はしがき」『神戸市文献史料第九巻 古文書調査報告』) そのなかで、さらに寛政期の柴田家の経営状況 などもあわせて考えてみたいと思います。
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〜寛政期、灘目の酒造家をとりまく状況〜 ページトップへ
大名貸とは、諸大名が主に三都(江戸・京都・大坂)やその他の富商からの借金のことであり、それを貸し付ける側から称したものです。その中心地は大坂であり、蔵元・掛屋をはじめ両替商がこれを行っていました。(藤野保『大名・その領国経営』、森泰博『大名金融史論』、安岡重明『財閥形成史の研究』、作道洋太郎『近世封建社会の貨幣金融構造』、中川すがね「近世大坂の大名貸商人―鴻池屋栄三郎家の場合―」など) 柴田家のような江戸へ積み下す「下り酒」を醸造していた酒造家もまた、大名貸を行なっています。伊丹の小西新右衛門家などはその代表例としてあげられるでしょう。(『伊丹市史』第二巻、賀川隆行「近世中期の小西屋新右衛門家の大名金融」など)また、大坂の鴻池屋善右衛門家のように江戸時代初期の段階で酒造家から海運業への展開を経て両替商に転身し、大名貸を経営の中核にすえた商家もありました。(森泰博『大名金融史論』、安岡重明『財閥形成史の研究』など) もちろん鴻池屋善右衛門は特異な事例ですが、ここで注目すべきは、本業の酒造業を継続した伊丹の小西家の場合でも、一八世紀後半以降は本業の酒造業よりも大名貸へ経営の比重を大きく移していたという指摘があることです。(賀川隆行「近世中期の小西屋新右衛門家の大名金融」)小西家の事例だけですぐさま判断するのは危険ですが、このような指摘から、一般に「江戸時代の酒造家」としてとらえられる商家でも、時代の推移や局面によって酒造業は経営の一側面にすぎない時期もあったことがわかります。冒頭で、柴田家の経営について、その全体像をとらえる必要がある旨を述べましたが、それはこのような点を意識したためです。 もっとも、ここでは柴田家の経営の全体像にせまるまでは到底及ばず、柴田家の大名貸についてそのごくごく一端を明らかにしたにすぎません。また今回は特に取引そのものよりも、商人たちのネットワークや情報提供・収集のあり方、取引以前の状態がわかる史料の紹介が中心となっています。しかし、それらもまた今後取引そのものを取り上げていくうえでの手がかりとなりうるものであると考えます。あらかじめその点はお断りしておき、早速分析を進めていきたいと思います。
柴田家(屋号:柴屋)が大名貸を行なっていたことは、柴田家文書の『諸御屋敷年々勘定帳』(寛政七年(一七九五)作成、柴田家文書六三四六)などからわかります。これによると、柴田家は寛政年間には、尼崎藩をはじめ、麻田藩、龍野藩など六大名家と銀の貸借関係がありました。大名家との取引関係の有り様を表1に示しました。この表1をみると、例えば尼崎藩は天明七年(一八七八)以降、毎年柴田家から借銀をしています。さらに、柴田家の取引先としては当初、尼崎藩のみだったのですが、寛政六年(一七九四)に高松藩・久留米藩、翌年には麻田藩・高木一柳氏・龍野藩などとも取引を開始しています。この表1をグラフ化したのがグラフ1ですが、ここでは、この時期柴田家としては大名貸に関してはかなり規模を拡大して行なっていることが、みてとれます。 一般的に大名貸は「踏み倒し」が多く、リスクの大きさが指摘されています。(藤野保『大名・その領国経営』)とりわけ元禄中期以降、大名貸の危険性はさらに増したとも言われています。(中川すがね「近世大坂の大名貸商人―鴻池屋栄三郎の場合―」)にもかかわらず、@ なぜ柴田家ではリスクの大きい大名貸に踏み切ったのでしょうか。 また、A柴田家では、取引相手としての大名をどのように選定していったのでしょうか。 上記@・Aは冒頭の問題意識とも密接に関わる点ですが、以下では麻田藩との取引を事例として、最初にAの疑問点から考えてみたいと思います。
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グラフ1
本論に入る前に、少し麻田藩についてご説明しておきます。麻田藩青木氏は表高一万石、豊嶋郡麻田(現在の大阪府豊中市螢池中町)に陣屋を構える外様大名です。元和元年(一六一五)七月に麻田に移ってきて以来、明治維新を迎えるまで一貫して同地を支配していました。 寛政年間(一七八九〜一八〇一)ごろから麻田藩は次第に藩財政が窮乏化し、在方豪農からの借銀が増しています。この原因は直接的には、後の史料紹介で述べるように、領地での飢饉のほか、江戸屋敷の類焼など、突発的に起こった天災・人災などが原因でした。しかし、麻田藩の財政はその後も一向に回復しないどころか、むしろ悪化する一方でした。(『藩史大辞典』、『豊中市史』本編二)柴田家への融資依頼や取引は、ちょうどこの寛政年間より始まっています。 先にも述べたように、大名貸は大きなリスクをともないます。突然麻田藩から貸し付けを依頼された柴田長右衛門もまた、引き受けるかどうか慎重な態度を示しました。そして麻田藩への返答を行う以前、商人のネットワークを用いて、あちらこちらの商人に麻田藩の台所事情について問い合わせしています。実は柴田家文書の中には、そのような商人ネットワークを利用してまとめた麻田藩に関する調査書が残っています。この調査書の内容を紹介しつつ、次に、麻田藩と柴田家が取引を結ぶまでの経緯をみることにしましょう。
柴田長右衛門が作成した調査書の表題は、『摂州豊嶋郡・川辺郡麻田領貸付銀一件并御屋敷之聞合書御役人中対談書諸證文類下書』(寛政七年(一七九五)作成、柴田家文書一七七九二、以下『聞合書』)といいます。史料の内容紹介も兼ね、やや詳しく具体的な情報収集の経過をみていきます。 寛政七年(一七九五)、柴田長右衛門は、兵庫津の東出町中屋藤兵衛と、佐比江新地戸田屋喜平次を仲介として、麻田藩から「江戸御賄方御仕送り金」(以下、「仕送り金」)すなわち江戸藩邸経費の融資を依頼されます。長右衛門は早速仲介役の両人に、麻田藩が長右衛門に借銀の依頼にいたった、その経緯を尋ねています。両人からの返答は、「これまで「仕送り金」は大坂の炭屋五郎右衛門と伊丹の油屋小四郎の両家で一七年前より担当していた。しかし、前年の冬に両家とも麻田藩へ「仕送り金」中止を願い出た。そのため新たに「仕送り金」を担当する者が必要になったのだ。」というものでした。これを受けた長右衛門は、さらにその理由を尋ねました。すると、油屋は前年冬に破産し、炭屋も経営不振のためにそれぞれ「仕送り金」の中止を願い出たとのことでした。 しかし、取引を開始するのに、仲介役の二人からもたらされた情報だけでは不十分である、と長右衛門は判断したようです。そこで、長右衛門は兵庫津魚棚町の三木屋忠兵衛を頼み、麻田藩近隣の在郷町や都市の商人から情報収集を行っています。その様子については、章を改めてご紹介することにします。 最初に、尼崎の和泉屋利兵衛に対し聞き合わせを行っています。和泉屋は、尼崎藩の掛屋であり(『尼崎市史』第二巻)一五年ほど前に麻田藩に対し融資をした経験のある商人です。内容は、@これまで「仕送り金」を担当していた炭屋と油家はなぜその担当を断ったのか、A麻田藩近隣には池田・伊丹・尼崎など在郷町・都市があり富豪商人も大勢いるのに、なぜ近隣のそのような商人に頼まず灘・兵庫あたりまで銀主(出資者)を求めたのか、というものでした。和泉屋の返答は以下の通りです。 @前年の冬に油屋は破産し、炭屋も経営が苦しく仕送りができなくなったと聞いている。また一方では油屋が破産となり、「仕送り金」の為替取組自体がやっかいな状況となったため、炭屋は「仕送り金」を断ったとも聞いている。 A灘・兵庫近在から銀主を募ったのは、前年の冬に神戸村あたりで銀札元を引き受けた商人がいるため、そのツテを頼ったのではないだろうか。 和泉屋はかつて麻田藩と行なった取引では、利率を下げられたり、元銀が未だ返済されなかったりと十分な利益にはならなかった ようです。したがって長右衛門が麻田藩との取引を開始することについては、否定的な見解を持っていました。ですから長右衛門に対しては、「割に合わない取引になってしまわないよう、利息は高めに設定したほうがよい」「返済も『郷借』(麻田藩支配の村方が借り入れたという体裁をとること)にし、その証文をとっておいた方がいい」など、取引に関して丁寧なアドバイスをしています。 次に同じく尼崎の灘屋新右衛門に情報収集をしています。灘屋によると、やはり麻田藩の勝手向きは厳しいようですが、「大名であるがゆえに、いろいろと工面の方法もあるであろう。麻田藩の場合は領内に山林を所有している。その松を伐採し、売却していると聞いたが、それらはその工面にあてているようだ。」との情報を得ます。さらに、「そのあたりの事情は池田・伊丹の商人にお聞き合わせになれば、詳細はわかるだろう。」とアドバイスし、池田・伊丹方面の灘屋が懇意にしている取引先を紹介しています。 おそらく灘屋の紹介でしょう、次に池田の榎坂屋平兵衛に聞き合わせをしています。榎坂屋もかつて内々に麻田藩と取引関係のあった商人です。 榎坂屋は最初に麻田藩の勝手向きについて説明しています。榎坂屋によると、「先代の藩主が伊予宇和島藩から養子に入っていたことから、里の宇和島藩より援助があったため、そもそも藩の資金繰りはよかった。」とのことでした。近年の麻田藩の勝手向きについても、「登用された役人の取り締りがよく、これまでの借金は次第に片付いていた。そのため新たな借り入れも全く行なっていなかった。」と伝えています。しかしながら「昨年に限っては麻田藩江戸藩邸類焼、領内の旱魃等凶事が重なったうえに藩主の江戸からの帰国もあって出費が嵩み、さらに折悪しく銀主の一人であった油屋小四郎が破産し、そのあおりをうけた炭屋も銀主を断らざるを得なくなった。」とのこと。長右衛門のような新規取引先を麻田藩が探すようになったのは、偶発的要因によるものだと榎坂屋は判断していたようです。 最後に、尼崎での情報収集Aの質問については、榎坂屋からも去年より神戸村松屋金左衛門という者が銀札元をしていたことからそのツテであろう、と同様の返答を得ています。 榎坂屋はもし長右衛門が新たに麻田藩と取引を開始したときには、伊丹・池田の商人仲間で申し合わせて麻田藩が返済にあてる米を(高値で)買い取るなど便宜を図る旨も伝えています。 さらに池田では、大和屋金五郎別家大和屋木工兵衛からも情報を得ています。大和屋金五郎は麻田藩と取引関係を結んでいるだけでなく、麻田藩発行の藩札の銀札引換元を勤めるなど、麻田藩とは縁の深い商人です。ただし、前出の榎坂屋によると、大和屋金五郎は数年前、大和屋庄左衛門とともに、麻田藩家臣が藩主の名を騙って申し入れた借り入れに応じたことがあるそうです。その後この家臣は出奔、あるいは暇を出されたために大和屋への返済は無く、一応藩主からは多少の補償金が支払われたものの全面的な返済は断られたとのことでした。そのような事情から、大和屋の麻田藩に対する心証は悪かったようで、別家の木工兵衛もまた麻田藩への評価は先の榎坂屋と比べ、やや辛らつです。 木工兵衛によると、「麻田藩の現在の資金繰りがいいのか悪いのか、判断はつかない。しかし、麻田藩と本家(金五郎)との貸借については、現在まで返済が完了していないものもあり、私の口からは決していいとは言えないので、とにかく他にもあたって判断してほしい。」とのことでした。その一方で、大名貸自体の評価はさほど悪いわけではなく、「麻田藩に限らず、一般的に大名は毎年の収入(年貢)が確実に入ることから、町人よりはまだ経営が安定していると考えてよい。とにかく返済がスムーズにいくかどうかは貸し手・借り手双方の運次第だ。」とも述べています。そして、「麻田藩の内部事情の確実なところが知りたければ、藩の米を扱う米問屋に聞き合わせるのが確実だろう。」とアドバイスをしています。
先の大和屋木工兵衛のアドバイスもあり、最後に、伊丹の原田屋茂兵衛に聞き合わせを行なっています。尼崎・池田の聞き合わせの際には、麻田藩の勝手向きについて大まかな内容を伝えるものが多かったのですが、原田屋からはより詳細にその実態を伝えられました。 まず、麻田藩の財源である領内の米の売却方法や米の品質などについて情報を寄せています。陣屋元の麻田の米は、品質が良く酒造に適しており、淀・高槻米と同格の値段がつけられるそうです。また麻田藩の銀札(藩札)発行状況にも触れています。近年発行された銀札は、飢饉の際領内の村々へ貸し付けることを目的として発行されたものであるとのこと。ただし、村々への取り立ては年貢よりも厳しいものであるとのことでした。 さらに、麻田藩の賄方・勝手方の二人の家臣についても情報が伝えられます。一人は岸上小兵衛、もう一人は岸部太兵衛。二人とも百姓の出身ですが、その才能に目をつけられ、勝手向き取り締まりのため家臣として大抜擢をされた人物でした。
これまで『聞合書』の内容を詳しくみてきましたが、その結果、長右衛門はついに決断を下します。「いろいろと情報を収集してきたが、麻田藩は藩主をはじめ、家臣も取り締まり方は良いようだ。今のところ、思わぬ出費が嵩み、さらに歳入が見込めない事態に陥っているが、追々身上は持ち直すだろう。」最終的に、長右衛門は麻田藩への融資を行うことを決めました。早速長右衛門は麻田藩との取引を開始しています。 さて、長々と内容をご紹介してきましたが、いくつか興味深い点をあげてみたいと思います。 第一に、長右衛門が手にした情報の性格についてです。最大の関心は、油屋・炭屋が麻田藩への資金提供を断った理由でした。しかしながら、商人からもたらされる情報は、麻田藩の資産状況(山林の所有、米の質など)、藩経営状況(宇和島藩からの助成、銀札発行、役人登用、負債整理状況など)など多岐にわたり、総じて麻田藩が出資対象たりうるかどうか、判断の基準になるものばかりです。すなわち、今回の長右衛門の調査は、現代で言うところの、いわゆる「信用調査」に相当するものとしてとらえることができるでしょう。 第二に、程度の差はありますが、「大名だから工面の方法はある」「商人を対象とする投資よりは相対的に良い」とするなど、商人たちの大名貸についての評価は必ずしも低いものばかりではない、ということです。もっとも、基本的に大名貸を彼らの経済活動の中に組み込んでいる商人たちが、こうした情報をもたらしたということを念頭に置いておく必要はあるでしょう。しかし、こうした大名貸に対する認識は、冒頭の@の問題、すなわちなぜ柴田家ではリスクの大きい大名貸に踏み切ったのか、という問いを解くにあたっての糸口となります。この点に関しては、また後ほど述べたいと思います。 第三に、寄せられた情報の内容は様々でしたが、いずれの商人も長右衛門に対し、自らの懇意の取引先を紹介したり、親身になってアドバイスを送ったりしていることです。 これは商人たちが、お互いに情報を交換できるヨコのつながりを、とても重要なこととしてとらえていたことのあらわれと言えるでしょう。
2でみてきたような調査を経て、長右衛門は麻田藩との取引を開始 するわけですが、次に長右衛門が実際に麻田藩に行なった貸付の状況をみてみましょう。 寛政七年については、麻田藩より「仕送り金」として指定された総額は一〇〇貫匁。これを柴屋長右衛門のほか、米屋十兵衛(兵庫津北中町)・和泉屋半兵衛・柴屋伊左衛門の四名で分担し、融資しています。この内訳は表2の通りです。毎月一〇貫匁ずつ・一〇ヶ月にわけて江戸へ送付することになりました。利率は一ヶ月あたり〇.九五%。先にあげた小西新右衛門や、大坂の鴻池屋栄三郎などの事例を見ていますと、(賀川隆行「近世中期の小西屋新右衛門家の大名金融」、中川すがね「近世大坂の大名貸商人―鴻池屋栄三郎家の場合―」)大名貸における利率は一ヶ月につき一%前後ですので、大体相場と言えます。利息は単利(前期間の利息を元銀に加算しない、元銀だけに対する利子のこと)なので、一〇ヶ月・一〇〇貫匁では利息は九.五%、すなわち九貫五〇〇匁が一〇ヶ月間トータルの利子収入となります。さらに利子収入のほかの雜収入(返済を米で受けるために生じるものなど/後述)・麻田藩から下賜される扶持米(十人扶持)も試算段階では加えられており、当初はその場合の「徳用」(利益)を年間一二貫八五匁で算出していました。(柴田家文書一七七九二)
ところで、寛政七年以後も長右衛門は米屋 などと共に麻田藩に対しての出資を続けます。寛政年間に確認できるのは七年〜一一年の五年間で、その内訳は 表3〜7に示すとおりです。
長右衛門の麻田藩への貸付状況は上記の通りですが、
それでは実際の麻田藩からの返済状況はどのようなものだったのでしょうか。 ![]() ![]() ![]() (柴田家文書「寛政一二 米売渡証文、米渡方請合村々役人連判一札、麻田勘定書一札」『神戸市文献史料』第一〇巻所収を もとに作成) ところで、長右衛門が形の上で 「買い受けた」ことになっている年貢米は、その後、どうなったのでしょうか。年月日は不祥ですが、柴田家文書一八七五三・一八七五四 によると、麻田藩領内村々の組(麻田組・今在家組・井口戸組・畑組・大鹿組・多田組)ごとに年貢米の入札を米屋中に行なわせ、買い取 らせていることがわかります。入札に参加した米屋は在方商人が一〇名、伊丹が九名、池田が九名、尼崎が一名であることから、麻田領内 で郷払い扱いとなったと考えてよいでしょう。米は一石につきおよそ七五〜八〇匁で売却されています。以上が返済システムですが、麻田藩からの返済は必ずしもスムーズに行なわれたわけではありませんでした。柴田家文書の中には麻田藩 役人から返済期日を延ばしてほしいという依頼の書簡をいくつも目にすることができます。また、返済が滞っていながらも、さらなる借用を 要求している場合もあります。なお、 表8は、麻田藩からの利子返済の状況を示したものです。元銀返済の有無や先ほどの年貢米売買 との関連は不明ですが、ひとつの目安にはなりうるでしょう。これを見ると一一貫匁強・一〇貫匁強の返済があった寛政一二年(一八〇〇)、 翌享和元年の他は、大体年間一〜三貫匁の返済を行なっていることがわかります。しかし、麻田藩では、毎年そうした返済を上回る額の借用を 続けていました。( グラフ2最終的に麻田藩では、寛政年間に商人たちから借用した銀子を返済することはできなかったようです。長右衛門も返済不能分については結局 「永納」としました。ただし麻田藩からは、長右衛門の子孫が必要とする際にはいつでも逆に銀子を差し出す旨が盟約されています。また、このような「永納」の対価として、麻田藩からは「永々拾人扶持」が贈られました。(柴田家文書五三六九)それ以前の段階でも十人扶持が 下賜されてはいましたが、それはおそらく長右衛門一代限りのものであったのでしょう。今回は「永々」、すなわち子孫代々まで十人扶持が 下賜されることになりました。十人扶持の実際の額ですが、年月日は不祥ではあるものの、柴田家文書一七八〇六・一七八七四によると、麻田 勘定所から長右衛門へ未年一二月に扶持米として米四石八斗八升(実際は銀で下賜。二九二匁八分)、子年一二月に四石八斗八升五合二勺 (三七三匁一分一厘二毛)が下賜されていることがわかります。このような扶持米を、長右衛門は「徳用」(利潤)として認識していましたが、 大名貸を営む商人にとって時としてそれは返済の一部としてとらえられることもあったようです。(作道洋太郎『近世封建社会の貨幣金融構造』)しかし、麻田藩との取引においては、こうした扶持米をもって返済の一部として解釈しても、あまりに少額であることは否めません。踏み倒しとは 言わないまでも、事実上、債務返済は凍結されてしまったものといえるでしょう。以上、麻田藩を事例として、柴田家の大名貸経営のあり方を見てきました。章を改め、最後にこの時期の柴田家にとって大名貸の持つ意味を 少し考えてみたいと思います。
冒頭において、@・Aの二つの疑問を掲げました。Aについては、 2で詳しくみてきたので、ここでは残り二つの疑問、@ なぜ柴田家はリスクの大きいと言われている大名貸に踏み切ったのか、について考えて みたいと思います。 長右衛門は大名貸のリスクについてどのように 考えていたのでしょうか。直接的に示す史料はありませんが、彼の行動から少し推察してみたいと思います。 最初に、大坂の 事例を参考とし、どのような点が大名貸の「リスク」だったのかを確認しましょう。大坂商人などが行なう一般的な大名貸は、大名が蔵屋敷 より発行する蔵預切手(米切手など)を抵当に借金し、期限がくると、蔵物(米や特産物)を売った代金で借金を返すしくみになって いました。しかし、諸大名は期限がきても、借金を返済することができないことが多く、そのため据え置きを願ったり、将来の蔵物を目当て とする先納切手を発行し、これを抵当に証文を書きかえたりしていました。 このように
蔵預切手による大名貸は、担保組織がきわめて不確実でした。米切手についてみると、蔵屋敷が現実の払米に対して発行する払米切手も、借金の抵当のために発行する切手も、一般に、蔵米を引き出すことができる
正米切手とみなしながら、実際に発行することができたのは払米切手に限られていました。蔵屋敷が実際の
払米高より沢山の切手を発行すること(空米切手)は、早くから幕府は禁止していましたが、他日回収の目的で借金担保のため、別の切手(調達切手)
を発行することは認めていたため、諸大名はこの方法で借金をし、場合によっては回収不能の調達切手を発行することもありました。すなわち、
財政窮乏をきたしている諸大名は、担保物件としての蔵物の準備がないままに、先納切手や調達切手を発行して、借金したので、利子・元金の
回収が不可能な場合も多かったのです。最悪の場合、「お断り」という借金の踏み倒しが行われ、倒産する大名貸も現れました。
(藤野保『大名・その領国経営』)
上記のような点が 大名貸にまつわるリスクだとすれば、当然大名貸を行う町人の方では、このようなリスクを回避するために、いくつかの手段を講じていました。例えば大坂では、「締貸」という方法がとられています。「締貸」とは、大名貸を行なう町人どうしで融通組織をつくり、借金踏み倒しをした 大名に対して不貸同盟を結ぶことです。(藤野保『大名・その領国経営』)また、共同での融資を行なうことでリスク分散をはかりました。(作道洋太郎『近世封建社会の貨幣金融構造』)さらに、鴻池家などでは、取引先の大名については複数家を対象とすることで、リスクの軽減を はかったようです。(藤野保『大名・その領国経営』)このようにリスク回避や軽減の方法は、大名貸を行なう商人の間に経験的に積み上げられ、 蓄積されていたと考えられます。ところで、長右衛門が麻田藩に対して行なった融資でも、上記のようなリスク分散の手法がとられていることがわかります。その一つに、柴田家における取引大名家の増加があげられます。 グラフ3をみると、寛政四年(一七九二)を境にして、柴田家の尼崎藩への貸付額が急激に増加しています。 柴田家が取引相手を増やしたのは、尼崎藩への貸付額が増加したのちの寛政六年(一七九四)からです。これは先の鴻池屋善右衛門の事例と同様の 対策としてとらえることができるでしょう。さらに、麻田藩への融資が長右衛門単独ではなく、共同出資として行なわれている点があげられます。これもまた長右衛門が講じたリスク分散法の ひとつです。このようにまとめてみると、大名貸のリスクの大きさについては、長右衛門は十分に認識していたことはほぼ間違いないでしょう。とすれば、 なおさら@の疑問点がわからなくなってきます。リスクを承知の上で、なぜ長右衛門は大名貸に傾斜したのでしょうか。 ![]() b.灘目の酒造家たちが置かれた立場 若干視点をかえて、 当時の灘目の酒造家たちの置かれていた立場から考えてみることにしましょう。 でも述べられていますが、このころ長右衛門のような灘目の酒造家たちは大きな転機を 迎えていました。天明七年(一七八七)松平定信が老中職に就任すると、 幕府は酒造業の徹底統制をめざしました。特にこれは摂泉十二郷という灘目の新興酒造業を対象としたものであり、冥加金の賦課、流通統制など厳しい酒造統制が 行われました。(『新修神戸市史』V) 灘目地域の酒造家たちが、こうした統制により、 経営上大きな打撃を受けていたことは想像に難くないでしょう。事実、江戸入津高は天明期前半に比べ、天明後期から寛政期かけてはおおよそ 一〇万樽もの減少がみられます。すなわち、灘目酒造家の一人として、長右衛門もまた、本業の酒造業 に関しては経営難に陥っていたかもしれません。少なくとも、当該期は酒造業では経営の発展は見込めない、閉塞状況にあったことは事実である と思われます。この点については、本業の酒造経営の分析を進めた上で総合的に評価を下す必要があり、今後の課題です。とりあえずここでは、 こうした状況打破を目指し、新たな道を模索した長右衛門がたどりついたのが大名貸だった、という推論をたてておきたい と思います。 長右衛門が大名貸という選択をしたことについては、さらにあと二点ほど条件が揃っていたことが指摘できます。 そのひとつを考えるうえで、今一度長右衛門の周囲の商人たちの認識を振り返っておきます。大名貸に関する評価は様々でしたが、 彼らは一様に、基本的にはリスクは大きいが、返済さえ着実に取り付ければ大きな利益をあげることができるものとして認識しています。 特に一般商人に対する融資と比較してとらえられている点が特徴的でしょう。信用における領主(大名・旗本など)権力の相対的優位性 を、大名貸を経営の中に組み込んでいる商人たちは認識していたわけです。長右衛門も、おそらくはこのような認識を少なからず共有し、 大名貸という選択肢をとったのでしょう。 ふたつめとして、領主側からのアプローチがあげられます。灘目の発展の様子は著しかったことは、幕府の政策上からもうかがえますが、 幕府に限らず諸大名家においても、新たな融資を受ける新たな取引先として灘目商業資本に注目していたのでしょう。加えて、寛政期ごろから 大坂の町人たちは次第に大名家との取引を縮小する傾向にありました。このような側面からも、諸大名家は新たな取引先の開拓の必要に せまられていたわけです。 麻田藩ができる限りのコネ・ツテを使って、柴田とコンタクトをとったことも、そのような関心の表れといえます。もっとも麻田藩については、 その背景として大坂に限らず伊丹・池田・尼崎などの近在の商人たちからの貸し渋りがあったと思われます。今回はそれを実証するまでに いたりませんが、参考として、表9に、長右衛門取引以前に麻田藩と 取引があった商人たちについての、麻田藩からの返済状況を示しておきます。ちなみに今回十分にはご紹介しませんでしたが、基本的に 長右衛門が問い合わせをした先の商人たちの大半は、長右衛門が麻田藩との取引を開始することに否定的でした。近在の商人たちの麻田藩へ の信用が低下していた可能性は高いです。このような事態を認識しつつも、若干強引に取引に踏み切った長右衛門でしたが、 やはり成功したと呼べる結果は残せなかったことは、先に示した通りです。 いずれにせよ、このような諸大名と、灘目の酒造家の利害が一致した先に、柴田家のような灘目の酒造家による大名貸が実現したことを確認し、 本論を終えたいと思います。
【参考文献】 藤野保『大名・その領国経営』(人物往来社、一九六四) 森泰博『大名金融史論』(大原新生社、一九七〇) 安岡重明『財閥形成史の研究』(ミネルヴァ書房、一九七〇) 作道洋太郎『近世封建社会の貨幣金融構造』(塙書房、一九七一) 中川すがね「近世大坂の大名貸商人―鴻池屋栄三郎家の場合―」(『日本史研究』三二九、一九九〇) 賀川隆行「近世中期の小西屋新右衛門家の大名金融」(『三井文庫論叢』第三二号、一九九八) 『新修神戸市史』歴史編V 近世(一九九二) 『神戸市文献史料 古文書調査報告』第九巻・第一〇巻 『藩史大辞典』 『豊中市史』本編二 『尼崎市史』第二巻 『伊丹市史』第二巻
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