江戸積み酒造業に灘が躍進する契機となった勝手造りは天明5年(1785)まで続き、翌6年には二分一造りが発令されました。減醸令は酒株の石高が基準になります。無制限の酒造が許された勝手造りの期間中を経て、元禄期に取得していた各酒造家の酒造株高と、現在の実造り高とには大きな隔たりが生じたため、改めて酒造高を確認し、それに基づいた株高の調整が必要となります。そのため、天明8年(1788)幕府は各酒造家に天明5年の造石高を申告させ、これをもって「永々の株」と称し、以後、この株高が酒造統制の基準となりました。
天明5年、上灘・下灘における酒造家総数は120軒で、造石高は14万1762石(『灘酒経済史料集成』)。平均すると1軒あたり1000石以上の酒造を行っており、灘酒造業の確立を思わせる成長を遂げ、旧来の酒造郷の脅威になっています。
灘酒造業の進出に対して、当時、大坂三郷の酒造家は「摂津在々の酒造家200軒が水車精米によって酒を量産しているため、大坂三郷の酒造家の経営が困難となり三郷酒造仲間700軒のうち現在稼働しているのは400軒に過ぎない状態である」と述べています。
このような、旧来の酒造地域と後進地域である上灘・下灘・今津の利害対立を調整するため、また江戸の酒問屋に対する荷主組合として組織されたのが「摂泉十二郷酒造仲間」の結成でした。
江戸積み酒造地帯として知られた摂泉十二郷とは、池田・伊丹・西宮・尼崎・北在・伝法・今津・兵庫・大坂三郷・上灘・下灘・堺をいい、それぞれの酒造地域の地名を冠して何々郷と呼んでいます。ただ、北在郷のみ、川辺郡を中心に島下郡・豊島郡・武庫郡・有馬郡に散在する江戸積み酒造業を総称しています。
灘郷のなかで、酒造業の中心となる御影・魚崎など兔原郡に属する地域が上灘郷であり、
二ツ茶屋・走水等、八部郡の村々は下灘郷に属しました。
このように新旧の酒造地域が形成され、大坂三郷酒造大行司を触頭として、灘三郷を含む摂泉十二郷酒造仲間が結成されたのは安永年間から天明年間(1772〜89)にかけてのことと考えられています。 |