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灘の酒造業
1 在方酒造業地灘
2 日本酒のルーツ
3 江戸積みの酒
4 近世前期の酒造地域
5 近世前期の灘酒造業
6 酒造働人の出稼ぎ
7 灘の江戸積み酒造業の興り
8 摂泉十二郷の成立と天明8年の株改め
9 灘・今津の酒株
10 樽廻船と新酒番船
11 江戸の酒問屋
12 文化文政期の灘酒造業と上灘郷の分裂
13 天保3年の新規株
14 宮水と水屋
15 屋の酒荷物積み出し状況
16 幕末の灘酒造業
17 摂津十二郷の解散
18 酒の自由営業
7 灘の江戸積み酒造業の興り
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  前述したように、酒造は米の豊凶によって統制される産業です。元禄期にはいまだ江戸積み酒造業に組み込まれたいなかった灘の酒造ですが、酒造業界は元禄後期から連年厳しい減醸を余儀なくされ、それが宝永5年(1708)まで続きました。
  そして宝永6年に規制が解除されると、以後、正徳5年(1715)・享保18年(1733)の2回の減醸令を除き、天明6年(1786)まで長期にわたって減醸が触れられることはなく、宝暦4年(1754)には勝手造りが令され、新規営業者・休業者も届け出さえすれば酒造業を営むことができる時期を迎えました。
  この間に、これまで江戸積み酒造業に含まれていなかった灘・今津の酒造家が台頭し、享保9年(1724)の江戸下り酒問屋の調査に、灘・今津の名が江戸積み酒造地として揚げられています。
  これを元禄年間の状況と比較すると、元禄10年(1697)には、表−2に示したように灘の酒造家26人が確かめられましたが、このうち酒株518石を所持し、江戸積みを行っていた山路十兵衛を除いた25人はほとんどが零細な地売りの酒屋です。ところがおよそ30年程後の享保9年には、以下のように、摂・泉1015人の江戸積み酒造家の内に26人の灘の酒造家と、29人の今津の酒造家が含まれています。
  享保9年の下り酒生産地と酒造家数をみると以下のようになっています。
西宮82人 大坂459人 天満135人 北在78人 伊丹54人 尼崎41人
兵庫40人 池田27人 伝法23人 三田12人 武庫4人 鴻池1人
今津29人 御影10人 魚崎4人 森4人 神戸4人 脇浜1人
青木1人 鳴尾1人 本庄1人
河州6人 泉州4人 尾州72人 濃州65人 参州56人 播州3人
  さらに、灘酒造業の躍進の契機となったのが前述の宝暦4年(1754)に発令された「勝手造り令」でした。これは享保期以来の米価の下落を緩和する措置として、酒造家に対して酒造米の買い上げを奨励したもので、酒造株を持たない新規営業者でも届け出れば酒造りが許可され、これによって在方の商業などによって資本を蓄積した灘の商人や地主が酒造業に資金を投資し江戸積み酒造業に進出しました。
  宝暦年中(1751~65)、灘何村と称していたこの地方で、明和9年(1772)の史料に「上灘目」「下灘目」、さらに安永5年(1776)には「上灘江戸積酒家中」「下灘江戸積酒家中」の名称がみえ(『灘酒経済史料集成』)、灘地方における江戸積み酒造業の展開が伺えます。