灘酒造業の中心となった地域は、摂津西海岸地帯の灘目と称された地域です。文献の上で「灘」の名が最初にあらわれるのは正徳6年(1716)といわています。
近世初期における灘の酒造業はごく小規模なもので、寛文6年(1666)の第一次酒株改め時の株高は840石に過ぎません(但しこの数字は『灘酒経済史料集成』では御影村の造石高さはなかったかと注記されていますが、いずれにしても微々たるものです)。
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山路十兵衛あて川口忠兵衛仕切状 拡大
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その後、貞享元年(1684)の株高をみてもおよそ1200石というわずかな造り高で、江戸積みをするほどの酒造高ではありません。次に元禄10年(1697)をみると、既述したようにこの年は64万樽の酒が上方・尾州あたりから江戸に送られており、このうちに兵庫の酒が含まれていますが、灘の名は認められません。このようななかで、魚崎村の山路十兵衛は581石余の酒造を行い、同16年に、大坂の船問屋小松屋の廻船により、江戸の瀬戸物町組の酒問屋川口忠兵衛にあてて古酒10駄(20樽)を積み送っています。
山路十兵衛については、享保12年に開発された江戸・灘目間の飛脚便を取り扱った島屋の記録「島屋佐右衛門家声録」に、当時の灘における全盛の酒造家として、脇浜の「ただ屋久四郎」とともに山路十兵衛の名が記されており、灘が次第に銘醸地としての地歩をかためていたことがわかります。 |