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灘の酒造業
1 在方酒造業地灘
2 日本酒のルーツ
3 江戸積みの酒
4 近世前期の酒造地域
5 近世前期の灘酒造業
6 酒造働人の出稼ぎ
7 灘の江戸積み酒造業の興り
8 摂泉十二郷の成立と天明8年の株改め
9 灘・今津の酒株
10 樽廻船と新酒番船
11 江戸の酒問屋
12 文化文政期の灘酒造業と上灘郷の分裂
13 天保3年の新規株
14 宮水と水屋
15 屋の酒荷物積み出し状況
16 幕末の灘酒造業
17 摂津十二郷の解散
18 酒の自由営業
10 樽廻船と新酒番船
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  最初に上方の酒が江戸へ送られたのは馬の背によるものであったという伝承についてはすでに述べました。そして、船による酒廻漕の起源として「船方曰御定並諸方聞書」(『灘酒沿革史』)に次のような記述があります。
江戸へ積下り申す初め兵庫において北風彦太郎也、鴻池新左衛門まだ歩行にて馬付にいたし、酒下し申され候時分に、話次申され候は彦太郎殿には手船三艘御座候由、殊に酒屋なされ候、然れば江戸へ酒積下しなされ候事安き様に存じ候、何とて油断なされ候やと申され候、右の彦太郎申され候は、左様の事存ぜず候、殊に江戸大廻り致し候船御座なく候、何程に売仕切り参り候と尋ね申され候処に、元付六両位にて、江府付の時分に五十五両より六十両の仕切見せ申され候、然ば少々江戸へ積み下し申すべく候とて、五十駄三十駄づゝ江戸へ下し申され候、兵庫より江戸へ酒積み申す初め、この彦太郎也、その後伊丹一家中、酒戸(ママ)の酒積み致され候、およそ万治中より也
  伊丹近郊の鴻池新左衛門が陸路江戸に下っていたころ、兵庫の船持北風彦太郎が手酒を持ち船で回漕したのが、酒を船で運んだ最初であると伝えています。
  また、「菱垣廻船記録集」(『灘酒沿革史』)に、上方の酒が諸荷物とともに江戸送りされたときのことが記されています。
御当地より御江戸表へ菱垣廻船相下り候最初の儀は、元和五年泉州堺の者、紀州富田浦より二百五十石積み程の廻船借り受け、御当地より大廻集め荷物積入れ、始めて御江戸へ積み廻し申し候
  泉州堺の者が紀州富田浦の廻船を雇い入れ、諸荷物の江戸積みを行ったのが菱垣廻船の濫觴であると述べられています。
  寛永元年(1624)には大坂に江戸積み船問屋を開業する者があらわれ、次第にその数も増加しました。
  廻船問屋は、自分の持ち船で操業する場合もありますが、多くは船持ちの廻船を雇い入れ、送り荷物の集荷、廻船の仕立て業務等を行う海運業者でした。
菱垣廻船
菱垣廻船
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  江戸へ送られる荷物は廻船問屋で船積みをし、船頭・かこ水主によって江戸へ回漕されますが、海難事故や荷物の抜き取りなどの不正も多く、荷主の損失は莫大でした。これを阻止するため、江戸の商人たちは元禄7年(1694)「江戸十組問屋」を結成しました。塗物店組・釘店組・内店組・通町組・綿店組・表店組・川岸組・紙店組・薬種店組・酒店組の10組で、各組に行司を置き、行司のうち交代で大行司に就任し、難破船や海難荷物の処理、廻船の改めにあたりました。江戸十組問屋に対応して大坂でも「江戸買次問屋(かいつぎとんや)」(のちの二十四組問屋)が結成され、江戸・上方間の海上輸送は彼らの掌握するところとなりました。彼らの差配する船は「菱垣廻船(ひがきかいせん)」と呼ばれ、酒もこの廻船によって江戸送りされました。
  ところが、享保15年(1730)、大海難事故を契機として酒問屋が十組問屋から脱退し、酒だけを積み込む「樽廻船(たるかいせん)」が登場します。酒だけを積み込むためあまり厳重な装備もいらず船の出航までの時間が短くなり、江戸着が早くなります。
菱垣廻船は荷嵩に相成り候故、荷打ち破損等も多く、樽廻船は荷嵩み申さず候故、格別入津も早く、弁理よろしき旨世上にて申し候(『海事史料叢書』第二巻)
  とあるように、腐敗しやすい酒をより早くに江戸に送ったのが樽廻船です。樽廻船問屋は大坂・西宮に成立し、酒荷物を積み込んで就航しました。
  多額の資金を必要とする廻船の建造には以下のような方法がとられました。上灘郷新在家の酒造家柴田長左右衛門は、天明9年(1789)2月、廻船問屋大和屋仁左衛門が新造する九百石積の廻船加徳丸に出資しています。
廻船加入注文
廻船加入注文
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  加徳丸を新造するのに必要な経費銀53貫480匁のうち2厘5毛(1貫337匁)を出資し、毎年7月に出資した割合によって徳用銀を受け取る契約です。このように出資銀に応じて毎年船からあがる収益を分配する方法のほかに、出資銀を何年かで返済し、出資者の酒荷を一定数優先的に積み込む契約形態があります。
  日本酒は一年物の酒です。その酒造年度の新酒から、次の年の新酒以前までを期限とします。その年にできた最初の酒を江戸へ送るとき例年行われる「新酒番船」といわれる行事がありました。大坂8軒・西宮6軒の樽廻船問屋が廻船に新酒を積み込み、大坂安治川沖・西宮浦からいっせいに出発し(文化2年=1805からは西宮浦に集まり出発)、江戸先着を競ったレースです。新酒番船から順次酒荷物を積み出し、その酒造年度に造った酒は次の新酒番船までにすべて江戸積みします。
  早造りの新酒が10月ころ江戸積みされ、翌年6月ころにその酒造年度に造った酒を積み切る慣行が天明期ころまでみられましたが、しだいに酒造が寒造りに集中してくると、番船の仕立ても遅くなり、文化11年(1814)は11月下旬、文政6年(1809)は12月5日、さらに幕末安政6年(1859)になると翌7年3月に新酒番船が出航し、11月下旬がその年度の酒の積み切りとなっています。