|
摂泉十二郷地域図 拡大
|
灘は、江戸時代、摂泉十二郷(池田・伊丹・西宮・尼崎・北在・伝法・今津・兵庫・大坂三郷・上灘・下灘・堺)と呼ばれた江戸積み酒造業地域のうちでもっとも新しく興った酒造地帯です。
上方の江戸積み酒造業は近世初期から展開され、まず池田・伊丹等がその中心をなし、元禄期以前の江戸積み酒造体制の中に灘酒造業はいまだ含まれていませんでした。
灘酒造業はこれら先進地域につづき、近世中期以降形成された酒造地帯で、その中心は摂津西部の海岸地帯の灘目と呼ばれる、東は武庫川口より、西は生田川にいたる、およそ6里ほどの沿岸地域を指す総称です。
近世前期、この地域の多くは尼崎藩領で、「中灘」(武庫郡)・「大灘」(兔原郡)と称していましたが、明和6年(1769)、尼崎藩領地のうち、武庫郡今津村から八部郡兵庫津までの浜手24カ村(武庫郡3カ村・兔原郡17カ村・八部郡4カ村)と尼崎藩以外の大名・旗本領を合わせて34カ村が公収され幕領となりました。
幕臣植崎九八郎はこのときのいきさつを次のように記しています。
長崎奉行石谷淡路守清昌(1762〜70、在任)が江戸・長崎往来の際、兵庫津・西宮あたりの豊かな様子を見受け、ここを公収すべく老中へ進言したことによって幕府領となったと述べています。事実、灘目は18世紀になると、酒造業が盛んになり地域は活況を呈していました。灘地方は、商業地・港町である兵庫津・西宮の中間に位置し、丹波地方との交通も繁く、大坂にも近い商品経済流通の活発な地域です。ここに在方酒造業が興り、近世後半期には、灘は江戸積み酒造業の中核となりました。
六甲山系の傾斜を利用した水車によって、酒造に必要な精白米が大量に入手できたこと、また、海岸沿いの土地に大酒造蔵を建設し、冬期に集中した酒造りを行ったこと等、酒造りに適した好条件のもとで急速に他の酒造地域を凌駕し、江戸積み酒造業は灘の大産業として発展しました。 |