解題
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全34件55点。年代が明らかなものでは明治35年(1902)から昭和5年(1930)にわたる。いずれも本来は神戸市役所の所蔵文書の一部であったと考えられる。内容は、大きく@昭和5年の「大砲二関スル綴」、A大正期〜昭和初期に進められた神戸市の都市計画事業に関する文書に分けられる。
@は、昭和5年当時市が管理していた2門の午砲(明治10年頃神戸港初代港長マルマン氏が使用していた午砲と大正9年〈1920〉当時の港務部長であった藤井治三郎氏寄贈の午砲)の下付申請に関する文書の綴りで、神戸市庶務課の名がある。これらの午砲は、当時使用されておらず、神戸商工会議所が、会議所の前庭に据え付けて「神戸市発展の歴史の一端を飾る格好の記念」としたいと下付を申請した。これに対し、神戸市は、保管を委託するという形式で貸与することとし、同年5月8日に2門を会議所に引き渡している。
また、Aは、神戸市都市計画部が所管したものと考えられ、そのほとんどが、大正8年度から昭和13年度にかけて3期にわたって道路の新設拡張改良を進めた市の都市計画事業にともない作成された文書である。具体的には、路線計画図・丈量図・土地平面図などの地図類および用地買収・費用補償などに関する書類からなる。特に、大正12年の須磨町編入を受け、大正12年度から昭和3年度にいたる6ヶ年継続事業として実施された都市計画第2期事業(須磨線・尻池線・東高松線の整備)に関わるものが多く見られる。 |