解題
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全518点。江戸時代後期の証文類などが10点ほどあるが、大半は明治〜昭和30年代の資料である。
八尾善四郎は弘化2年(1845)11月、淡路津名郡岩屋村の長谷川八右衛門の次男として生まれる。5歳のとき、兵庫西尻池の旧家八尾家の養子となり、その後兵庫運河の開鑿事業の中心となったことで知られる人物である。現在も運河を東西に渡る高松橋の西側に、大正8年(1919)に建てられた八尾善四郎の銅像が残されている。ちなみに八尾家文書のなかには、昭和4年につくられた「銅像建設十周年紀年写真(帖)」が含まれている。
明治26年(1893)11月に設立を出願した兵庫運河会社は、兵庫新川から八部郡駒ヶ林への本線、山陽電鉄停車場までの支線の2本の運河を開削して、中央に船舶繋留所を設置する計画を立てた。これは、和田岬が海にむかって突き出た地形のため、兵庫港への入港に困難を生じており、そこで和田岬の風浪を回避して兵庫港に入港をすることをめざしてつくられた計画であった。運河は土地買収などで曲折を経たのち明治29年1月着工、明治32年12月に完成する。八尾家文書のなかには運河開鑿願など会社設立期のものも含まれるが、とくに運河完成以後から大正期までの兵庫運河会社の報告書や株式名簿など、会社経営に関する史料が多い。
また、昭和33年(1959)に起こされた苅藻島などの埋め立て地の所有権の帰属をめぐって起こされた裁判関係の資料も多く残されている。この裁判資料は、裁判の経緯はもちろん、運河建設の経緯も同時に知ることができるものである。 |