解題
|
鹿島秀麿は嘉永5年(1852)近江国水口に医師大村純道の次男として生まれた。幕末には徳島藩侍医鹿島家の養子となり、徳島藩に仕えた。維新後稲田騒動(徳島藩家老の稲田氏が淡路島の分藩を求めたことに対し、徳島藩士が激発した事件)に巻き込まれて藩職を去ったのち、上京して慶応義塾に学ぶ。ここでの経験が秀麿のその後の政治活動の大きな画期になったと思われる。
帰淡後、教育・新聞出版事業に携わるとともに、立憲改進党に参加して兵庫県の自由民権運動の中心的存在となっていった。また明治10年代、慶応関係者が多かった神戸の政財界に深く関与し、明治23年(1890)七月の第一回総選挙では神戸から当選して国会議員となった。その後も大正期に至るまで合計8回当選、兵庫県を代表する国会議員として活躍した。
また秀麿は政界だけでなく、多くの会社の設立に関わった。特に鉄道関係が多く、市街鉄道問題に参画して近代鉄道の整備にも尽力、神戸市の水道布設にもかなり努力しており、神戸の近代都市化への貢献は大きいものがある。
3500点を超える史料からは、明治10年代の自由民権運動期から大正に至るまでの兵庫県下の政治的動向をかなりくわしく知ることができ、貴重な史料であるといえよう。また著名な政治家・名望家等と交わした書状が多いことも特徴で、それらの人々との交流の様子などがうかがえるのも非常に興味深い点である。このような好史料である『鹿島秀麿文書』の活用が、日本近代史のさらなる理解に寄与することが今後期待される。
平成25年度寄贈。 |