解題
|
幕末に兵庫(神戸)開港にあたった外国奉行(兼兵庫奉行・大坂町奉行)柴田剛中に関する史料188点。
柴田剛中は文政6年(1823)に江戸小石川に生まれた。徒目付、評定所留役助、評定所留役を経て、安政5年(1858)外国奉行支配組頭となり、江戸・神奈川間を往復し神奈川開港に尽力した。文久2年(1862)には、兵庫等の開港市延期の遣欧使節の組頭として派遣されて一行の要となって働き、帰国直後外国奉行並、ついで翌年11月には外国奉行に就任した。そして慶応3年(1867)5月13日に大坂町奉行、7月9日に兵庫奉行の兼帯を命ぜられ、兵庫開港・大坂外国人居留地問題の解決の任にあたった。兵庫(神戸)については、運上所や埠頭・居留地の造成、西国往還の付け替え工事(徳川道の造成)などを進め、12月7日、大坂・兵庫開港市の式典を迎えている。慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発、将軍徳川慶喜の大坂出帆で在坂の外国代表が神戸に移動すると、柴田は運上所の建物を外国代表に委譲し、江戸へ向った。同月に全ての役職を罷免され、4月に依願隠居したあとは上総国に退き、明治政府に出仕しなかったが、政府から外交上の問題についてたびたび諮問をうけ、上京してこれに答えたという。明治10年(1877)没。
本文書群は『公私日載』と題する日記のほか、幕府の外交官としてかかわった諸記録(海防や外交に関するもの)、蝦夷、摂津・和泉、畿内、神戸兵庫、横浜の地図、肖像写真などからなる。 |