1995年1月17日、神戸をマグニチュード7.3の都市直下型地震が襲った。阪神・淡路大震災と名付けられた大災害に見まわれたのである。しかし、神戸はその50年前の1945年、マリアナ基地からのB29部隊による激烈な爆撃を受け、一面の焼け野原となった。1945年の戦災と1995年の震災、いずれも、神戸市民にとっては、神戸の街を壊滅させた歴史に残る大事件であった。
震災復興の過程で、年配の市民は戦災と重ね合わせながら、「あの災害からも立ち直ったのだから」と想いをいだいたという。戦災とはどのようなものだったのか。神戸の市民にとって、一体どのような体験だったのか。戦後60年余を経て、戦災体験を持つ世代はだんだん少なくなってきている。現在平穏に暮らす街には、その悲劇の記憶の面影はない。そこで、あの大空襲を考える手がかりを提供するのがこのホームページ作成の目的である。
これまで市民は、受けた惨禍について、体験者の視点から戦災を語り継いできた。しかし、空襲をした側の資料は、市民は簡単にみることができない。そこで、大空襲の全体を明らかにする意味から、これに加え、今回アメリカ軍資料に基づき、神戸への爆撃の有様を把握できるようにした。いつ、どこから、何機の攻撃機が、どのような爆弾を、どれ位の量、投下したのか。当時、被害をうけた神戸市民が、知り得なかった情報である。航跡図の記録からは、マリアナ基地(サイパン、グアム、テニアン島の基地の総称)から、日本本土までまっすぐに伸びたルートの途中に、硫黄島があり、その硫黄島の攻防の時期によって、ルートを変更した様子がうかがえる。空海救助図に記されたルート途中の海軍艦艇や救援機の哨戒図は、出撃の度に、陸海両軍が協同して、爆撃機の遭難への備えをおこなっていることを示している。爆撃の結果は、想定された爆撃目標地域の被災面積であらわされている。
このホームページを、神戸の街の歴史や戦争体験についての教材作成等に役立てていただければ幸いである。
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